八王子は元々、養蚕が盛んで「蚕都」とも呼ばれる地だった。ここに長野・山梨・静岡東部・相模西部で生産された生糸や絹織物、木材、農産物などが集められ、物流の拠点として栄えた。1889年に中央線が八王子まで開通すると、八王子に集荷された貨物は鉄道で横浜まで送られるようになる。

 しかし当時は鉄道国有化前で、中央線は甲武鉄道、山手線は日本鉄道、東海道線は官設鉄道(国鉄)と複数の事業者に分かれており、それぞれに運賃が必要だった。また八王子から都心を経由して横浜まで輸送するのは時間もかかり、非効率的だった。

 そこで生糸商の原善三郎ら横浜の有力者が中心となり、八王子と横浜をショートカットする鉄道を建設しようという構想が持ち上がる。これが横浜鉄道である。

 原らは1894年、政府に鉄道敷設許可を申請するが1896年に却下。その後も1896年、1897年、1899年、1901年と計5度にわたって出願するも却下されている(原はその間、1899年に死去した)。いずれも却下の理由は、この間の鉄道は官設鉄道によって行うというものだったが、政府に具体化の動きはなかった。

 1902年になってようやく横浜鉄道の必要性が認められ、東神奈川~八王子間の免許が下りると、1906年に着工。1908年9月23日に開業した。

 開業時に設置された駅は東神奈川、小机、中山、長津田、原町田(1980年に町田に改称)、淵野辺、橋本、相原、八王子の9駅。運行本数は1日7往復(貨物は除く)で、東神奈川~八王子間の所要時間は約1時間40分だった。現在は快速で約45分だから、倍以上の時間がかかっていたことになる。

開業の1年半後には
国鉄線として運行

 こうして念願の鉄道は開業にこぎ着けた横浜鉄道であったが、経営は芳しくなかったという。というのも八王子~東神奈川間の所要時間は短くなったものの、横浜まで輸送するには東神奈川で貨物を積み替える必要があり、時間短縮効果は薄れてしまったからだ。

 前に述べた通り、1905年には中央線が岡谷まで到達しており、中央線から山手線を経由して横浜まで積み替えなしで貨車を直通できるようになっていた。