開港と“西洋譲り”の思考回路は上海・香港共通

 上海は、以前から欧米との接点を持つ人口が一定の層を成し、それゆえ合理的な思考と自由主義的な志向が強い地域ともいわれてきた。ゼロコロナを徹底しようとする当局に対しては「違法行為につき訴える」と歯向かう市民もいたように、党の指導に異議を唱える人たちが一段と増えた。そんな上海からは、「開港」の歴史で香港と共通する文化的素地が見えてくる。

香港返還25年の年に上海封鎖の因縁、中国の2大「制御不能都市」陥落の意味19~20世紀前半にかけての上海は、英・米・日・仏・独・露など20カ国余の国籍が集まる国際都市だった(2017年、筆者撮影)

 香港は1841年、上海は1842年に、いずれも英国によって開港させられた都市だ。今なお残る当時の西洋建築からは、文化や制度や思想面でも大きく影響を受けたことが垣間見える。

 二つの都市の市民には、「新しい物好きで、多様な価値に抵抗がなく、なおかつ遵法精神があるなどといった面で、共通するものがある」(澎拜新聞)。こうした点こそ“西洋譲り”といえるだろう。

 戦後から1950年代にかけて、共産党による内戦と建国を嫌い、上海から多くの住民が英領香港に命からがら逃げ込んだ。その結果、香港島の北角(ノースポイント)は移民が増え、「リトル上海」と呼ばれたそうだ。ベッドタウンで知られる新界(ニューテリトリー)の荃湾(ツェンワン)でも上海語を使う住民が多かったといわれている。上海で財を成した実業家や映画人も、香港に渡り活躍した。

 このとき、19世紀に香港に拠点を設け、大陸の港湾都市に支店網を張り巡らしたイギリス資本の香港上海銀行(以下、HSBC)も、上海支店を残して香港に退去した。当時の上海には、公債、株、先物などの金融業に従事する人材もいたが、彼らも香港に移住した。

 HSBCは当時、大陸での金融業を独占し、中国経済に深く入り込み、また本拠地の香港でも、特殊な地位と特権とともに金融市場を支配した。1949年、大陸では新中国が誕生、その後共産党政権のもとで混乱が続く中、香港は経済の発展期に突入し、アジアの国際金融センターとして成長した。

 ところが、1978年以降、中国が改革開放(市場経済)路線に転換すると、逆の流れが始まった。

 香港系資本が上海などの諸都市で投資に乗り出したのだ。特に不動産開発は香港系が得意とするところで、黎明(れいめい)期の上海の不動産市場をけん引した。こうして地下では互いに深いつながりを持ちながら、“兄貴分”としての香港が上海の発展に大きく貢献した。上海が国際金融センターとしての地位を築いたのも、香港との関係と無縁ではなく、2010年代は互いに競い合いながらも協力関係を構築してきた。

 HSBCについて言えば、中国の改革開放を商機と読み、1997年の香港返還とともにアジア本部を香港から上海に移転させようとしていた。2000年、森ビルは浦東・陸家嘴に開発したオフィスビルの名称をHSBCに譲渡し、「HSBCタワー(現在の恒生銀行大廈)」と変更したが、これは再び上海が国際金融センターになることを意味していた。

 このように、香港の発展には上海系の力が、上海の発展には香港系の力が相互に作用しあっていた。