上海でも人や資本の流出が始まるか

 他方、香港の繁栄のシナリオは1997年の中国返還以降、徐々に狂いを見せた。

 1984年12月、当時の英首相マーガレット・サッチャー氏と中国国務院総理の趙紫陽氏が「英中共同声明」に署名した。「中国は一国二制度をもとに、中国の社会主義を香港で実施せず、香港の資本主義の制度は50年間(2047年まで)維持される」とする公約のもと、香港は英国から中国に返還された。

 ところが中国は、「50年間不変」とした公約をほごにしたため、学生層は “民主と自由”を求めて大反発した。2014年には、3年後(2017年)に予定されていた普通選挙の導入が事実上撤回されたことに抗議する「雨傘革命」が、5年後の2019年には、逃亡犯条例の改正に反対する「時代革命」が起こった。

 警察とデモ隊の武力衝突やデモ隊による地下鉄駅や銀行の破壊などで、香港は大混乱に陥った。中央政府が徐々に干渉や圧力を強化した結果、一部の企業や資本は香港から撤退し、また一部の香港人や外国人も生活や仕事の拠点を他の国に移す事態となった。

 そして今、上海では似たような現象が見られる。当局による“ロックダウン”という締め付けで、一部の外国人は上海から出国(もしくはその計画)を進めているのだ。上海市民の間では一時、隠語を使った「移民」情報の検索が激増したが、当局は中国人の不要不急の出国に制限をかけた。

 今回のロックダウンにより、上海市民は「兵糧攻め」さながらのやり方で苦しめられた。市内に26ある総合病院も診療停止となり、急患ですらPCR検査が前提だという非合理的なルールが敷かれ、命を落とした市民もいる。陽性者は劣悪な環境の野戦病院に連行されるが、鼻っ柱の強い上海住民は警察権力などものともせずに闘い続けた。マンションや小区にまで視察に来た李強氏に食ってかかる住民もいた。「食ってかかる」とはつまり習政権に歯向かうことを意味する。だからこそ、上海市民を幽閉して“おきゅうを据える”必要があったのだろう。前出の王忠義さんはこう語っている。

「習指導部からすれば、上海市民が“革命”など企てたらたまったものではありません。その押さえ込みのためにコロナを利用して、長期にわたり上海市民を監禁する。それが中央政府の上海に対する“おきゅう”だったのではないかと私は考えています」

「香港デモ」は制圧され、その後急速に「中国化」が進み、香港はすっかり骨抜きにされてしまった。支配のためには経済発展も台無しにするそのやり方は、上海でも繰り返されるのだろうか。

 中国共産党が完全な支配を実現させる上での“目の上のコブ”は、西洋文化の影響を受けた香港であり上海だった。そういう“西側の精神”が根付く都市を衰退させ、トンキン湾が囲む海南島を香港に取って代わる自由貿易港と国際的商業都市にする――習氏の野望はここにつながっていくのではないだろうか。