AKB48の峯岸みなみが「お泊まりデート報道」に絡み、丸坊主になって謝罪した件で、ネットでも議論が噴出している。この議論、当然のことながらファンとそうでない人間では議論が分かれるが、好感を持ってこの謝罪を受けて入れている一般人は少ない。ほとんどの人が感じるのは、峯岸みなみの誠意ではなく「違和感」だ。

 なぜ、アイドルである若い女性が謝罪のために髪を刈らなければならないのか? 坊主にする必要があるのか? そのような違和感を感じる人のほうが大多数だろう。違和感を感じる理由は何か? それは、日本には女性が謝罪する時に坊主になるという「文化」がないからだ。

日本における「謝罪の文化」とは?

 謝罪もまた文化である。謝罪とは文字通り、罪を犯したことを謝ることだが、「謝罪の行為」のなかに「たしかに、この人には謝罪の意思がある」ことを、謝罪された側の人間が理解する必要がある。そこに謝罪行為の文化的意味がある。

 かつての日本において、切腹がなぜ「謝罪行為」になっていたのか? それは日本に切腹の文化があったからで、仮に中世ヨーロッパ社会で日本人が何かの間違いを犯して、それでいきなり切腹したとしても、切腹の文化がないヨーロッパ人には訳が分からなかったはずだ。つまり、謝罪の意思は何も伝わらなかったはずである。

 同様に、日本には「女性が坊主頭になる」という謝罪の文化はない。最近ではめっきり減ったが、男性にはその文化はある。仕事でしくじった若い男性社員が、坊主頭になって取引先に謝りに行くという光景は、少し前までの日本の企業社会ではよく見られた光景だ。

 だから今回、峯岸みなみが坊主頭になったことの意味は理解できる。しかし、それは男性の文化であり、女性の文化ではない。女性の文化として存在しない行為を、女性性(「性的なもの」のことではない)を売り物にしているアイドルがやる、あるいは多くの人が感じているように「やらされた」。そこに人は大きな違和感を感じるわけである。

女性が髪を刈ることの意味

 さらに言えば、その違和感の背景には大きな嫌悪感があると思う。今回の件では、峯岸みなみ本人が自分の意思で坊主頭になったことになっているが、それを信じている人は少ない。たとえ公式発表されているように本人からの申し出であったとしても、本人の強い意志があったとしても、それを許可した運営側や秋元康の判断に対する違和感、嫌悪感は拭えない。なぜか?

 それは、女性が髪を刈ることは、(欧米や日本など多くの社会においては)女性性を削ぎ取ることだからである。だから、女性性を排除する必要がある尼僧は髪を剃るし、映画『G.I.ジェーン』のなかで、主人公役のデミ・ムーアが丸坊主になったのも、軍隊においては女性性を排除する必要があるからだ。だからこそ、デミ・ムーアが髪を刈るシーンは、彼女の「強い兵士になる! 男には負けない!!」という強い意志の表現となり得るし、デミ・ムーアのこの映画にかける意気込みも伝わる。