何でそんなこと思いついたの?秀吉が敵をやり込めた作戦が「圧倒的に合理的」だったPhoto:PIXTA

戦国時代の戦(いくさ)と聞いて、あなたはどんな攻防を思い浮かべるだろうか。日本刀で斬り合ったり、矢や銃を撃ち合ったりと、敵軍と「ドンパチ」やり合うのが一般的だと思っているかもしれない。もちろんそれも一理あるが、「水攻め」「兵糧攻め」など戦術は他にもいろいろある。特に豊臣秀吉は「水攻め」の使い手だったとされるが、なぜわざわざ手間をかけて相手の城を水没させようとしたのか。その「深い理由」を探る。(作家 黒田涼)

無敵の戦法ではないのに
秀吉が「水攻め」を使った理由とは?

 戦国時代の水攻めといえば、大規模な堤防を築き、その中にある城を沈める大掛かりな戦術だ。では「日本三大水攻め」をご存じだろうか。

「備中高松城攻め」「紀州太田城攻め」「武蔵忍(おし)城攻め」の三つだが、実は全て豊臣秀吉が行ったものである。

 秀吉が天下統一を果たした要因は、水攻めに代表される合戦のあり方の「パラダイムシフト」によるところも大きい。目標達成のためには水攻めも辞さない、秀吉の革新的発想に迫る。

 岡山県岡山市の「備中高松城攻め」は1582年、織田信長配下だった秀吉が毛利勢を攻める過程で起きた。一般的な説では4キロほどの堤を築いたとされ、堤の一部は今も残る。

何でそんなこと思いついたの?秀吉が敵をやり込めた作戦が「圧倒的に合理的」だった備中高松城 備中高松城跡。本丸の高さと遺構が残る秀吉の築堤の高さが比較してある=岡山市北区

 和歌山県和歌山市の「紀州太田城攻め」は1585年、雑賀衆などを一掃するための戦いの一環で起きた。堤防は6~7キロともいわれ、一部の遺構が残る。

何でそんなこと思いついたの?秀吉が敵をやり込めた作戦が「圧倒的に合理的」だった太田城跡近くに残る水攻め土塁跡=和歌山市

 埼玉県行田市の「武蔵忍城攻め」は1590年の北条攻めの一環だ。現場指揮官は石田三成だったが、水攻めの方針決定など、攻め方は逐一秀吉が指示していた。こちらは28キロともいう長大な堤防を築き、その遺構である「石田堤」が何カ所か現存する。

 歴史ファンは知っているかもしれないが、このうち高松城攻めはうまくいった。だが時を同じくして「本能寺の変」が起きたため、信長の死を知った秀吉は京に向けて引き返した。いわゆる「中国大返し」である。そして「山崎の戦い」によって明智光秀を破り、秀吉は天下を手にした。

 しかし太田城や忍城では堤が決壊するなどし、必ずしもうまくいったとはいえない。巨大な堤防に囲まれても落ちなかった忍城は「難攻不落の名城」と称されるまでになった。
 
 つまり、水攻めは「攻城戦で無敵の戦法」というわけではなかった。それでも革新的かつ合理的だといえるのはなぜか。