与する政治勢力を「くら替え」しながら
「権力に近い位置」を死守

 池田氏の「リアリズム」は、公明党の政治的立場、政策志向の変化を歴史的に振り返ると、より明確に見えてくる。

 公明党は池田氏の発意によって64年に結党。当時は野党として自民党と対立関係にあったが、イデオロギーにこだわる社会党や共産党など他の野党とは異なり「中道主義」を志向してきた。

 70年代前半、公明党は「反自民・全野党結集」の方針に従って「日米安保条約の即時破棄」を訴えた。そして自民党は議席を減らし、与野党の議席差が伯仲する「伯仲国会」が実現した。

 ところが80年の総選挙で自民党が圧勝して「伯仲国会」が終わると、公明党は本格的に自民党・民社党との「自公民路線」にかじを切った。そしてこの頃、公明党は自衛隊についても「容認」へと方針転換した。

 92年の湾岸戦争後には、PKO法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)を自公民3党による交渉で成立させた。

 ただし、このまま自公の蜜月が続くかと思いきや、公明党は再びくら替えする。93年に自民党による一党支配体制が終幕すると、「非自民・非共産」の野党(8党派)からなる細川護熙(もりひろ)連立政権に参画したのだ。

 その後は二大政党の一角を目指した「新進党」への合流を巡って分裂するなどの混乱を経て、98年に「公明党」として再結成。翌年以降は自公連立として活動し、今日に至っている。

 連立政権を組んでからの公明党は、安全保障などの領域で自民党の政策を受け入れてきた(第104回)。一方で自民党は、公明党による「支持者への利益分配」の要求に応え、新型コロナウイルス禍の初期に「所得制限なしで国民1人当たり10万円の支給」を実現させた(第239回)。

 要するに、公明党は結党以降、状況に応じて自由自在に立場を変えながら「権力に近い位置」を常に確保してきた。野党であった時期も、常に有利な政治勢力に与(くみ)してきた。