オランダ・ロシア・イタリア・メキシコ…
常に“知らないエリア”へ移籍

 家長と違ってガンバのユースへ昇格できなかった本田は、捲土(けんど)重来を期して石川県の強豪、星稜高校へ進学。卒業後の05年から名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)でプロの第一歩を踏み出したが、当時から欧州移籍を見据えて「オファーがあれば、海外移籍を認める」という条項を契約書に盛り込ませていた。

 待望のオファーが届き、オランダのVVVフェンローへ移籍したのが08年1月。さらに10年1月にはロシアのCSKAモスクワへと移籍。ヨーロッパ最高峰の舞台であるチャンピオンズリーグに加えて、日本代表のエースとして出場した同年6月のW杯南アフリカ大会で鮮烈な結果を残した。

 子どもの頃からの夢だったセリエAの名門、ACミランへ移籍したのが14年1月。しかし、背負いたいと公言していた「10番」とパフォーマンスが釣り合わない、という逆風が時間の経過とともに強まり、16-17シーズンはリーグ戦の出場がわずか8試合という状況で退団した。

 新天地を問うメディアに対して、本田は17年夏の段階でこんな言葉を残している。

「自分は同じルーティンがあまり好きじゃない。環境もそうですけど、常に未開の地みたいなところがすごく好きですし、後は自分の知らないエリアに行くことも好きなので」

 直後に本田が移籍したのはメキシコのパチューカ。3度目のW杯となったロシア大会後の18年8月には、さらにオーストラリアのメルボルン・ビクトリーへ。しかし、わずか1シーズンで南半球でのプレーに別れを告げると、19年10月にはオランダのフィテッセへ移籍した。

「注文の多い本田圭佑」は選手に戻れる?意味のわからん指導者・戦術NG、1年同じチームは嫌…2018年ロシアW杯セネガル戦で、本田がゴールを決める瞬間 Carl Court / スタッフ / Gettyimages

 この時はモスクワ時代の恩師、レオニード・スルツキー監督から熱望されての移籍だったが、同監督の解任に伴い在籍わずか2カ月半で退団。翌20年1月にはブラジルのボタフォゴへ加入した。

 しかし、南米でのプレーも約1年で終止符が打たれる。21年3月にアゼルバイジャンのネフチ・バクーへ、さらに同年9月には前出のスードゥヴァへと、プレーする国が目まぐるしく変わった。

 ここで注目すべき事実がある。アジアを皮切りにヨーロッパ、北中米、オーストラリア、南米とこれまで5大陸の1部リーグでプレーした本田は、全てのクラブでゴールを決めている。次にアフリカのクラブでプレーすれば、全6大陸でプレーした世界初の選手になる。

 自身の考え方にアフリカは合う。本田はどのように考えているのか。