*今回の原稿は、ダイヤモンド社、ハフィントンポスト双方の了解を得て、より短くしたヴァージョンをハフィントン・ポストに掲載しています。
なぜこれほど際どい発言を繰り返すのか
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の従軍慰安婦をめぐる発言に対しては、維新の会や自民党の右派政治家などからも、強い批判が向けられている。ただし「人権軽視である」とか「国益を損なう」など、いかにも常套句的な指摘については違和感がある。「人権軽視である」は正しすぎて平板だし、「国益を損なう」はあまりに卑しい。益が見込めるなら良いのだろうか。そのレベルで議論すべきことではないはずだ。
おそらく橋下市長には、敢えて物議を醸す発言をすることで、今の自分への強い支持が維持されているとの意識があるのだろう。発言が際どければ際どいほど話題になる。でも際どさ狙いはエスカレートする。ぎりぎりのストライクゾーンを狙ったつもりが打者の顔をかすめる。それに対して「フェアプレイに徹しろ」とか「チームの益を損なう」などと、平板な正論を指摘しても効力はない。それは承知でやっているのだから。
今日の日付は5月20日。発言の余波はまだ続いているけれど、とにかく現段階で思うことを書いてみる。
今回の騒動のきっかけとなった発言「慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」については、一部の理はあると僕は感じている。ただしその一部の理は、慰安婦や公娼制度を保持していたのは日本の軍隊だけだと硬直的に思い込んでいる人たちに対してのみ、意味を持つ理だ。
多くの国(念を押すがすべてではない)の軍隊において、慰安婦や公娼の存在が認められていたことは確かだ。殺し殺されるという極限状況にある兵士が性欲を亢進させることも、まあ統計的にはあるかもしれない。だからこそかつて多くの国(これもすべてではない)の軍隊は、略奪やレイプなど非人道的な行為を繰り返した。それは日本だけではない。アメリカも韓国も旧ソ連も中国も、いやそもそもが有史以前から、兵士たちは人々を虐殺して女性たちをレイプし続けてきた。それは確かだ。
2012年8月の囲み取材で橋下市長が指摘したように、日本が国家として従軍慰安婦を朝鮮半島の女性に強制したことを示す(日本側の)文書や一次資料はいまだに見つかっていない。そして慰安婦論争が本格的に始まる契機となった吉田清治の『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)における吉田の告白は、後にフィクションであることを吉田自身が認めている。ここまでは同意する。いや同意するとかしないとかのレベルではなく、厳然たる事実だ。