国債に借入金も含めた政府債務残高の規模(対国民所得比)は、1944(昭和19)年度末時点ですでに約267%に到達していた。加えて、戦時補償債務や賠償問題があり、政府債務の全体像の確定は困難な状況にあった。大戦前からのインフレが大戦中さらに加速し、敗戦時の国民の財産・資産は、事実上、現預金に尽きるといっても過言ではない状態であった。

 昭和初期において、わが国の国債の約4分の1は外国債(利率は内国債よりかなり高め)が占めていた時期もあったが、戦時中の1942(昭和17)年から外国債の利払いは停止された。わが国は対外デフォルト(債務不履行)状態に陥り、その後1952年まで継続した。国債の構成も、終戦の時点では、金利水準を人為的に低く抑えた内国債が残高の99%を占め、そのほとんどを日本銀行と預金部(政府)が引き受ける状況となっていた。

「取るものは取る、返すものは返す」

 わが国が降伏文書に調印した9月頃から、極めて切迫した財政・経済・金融状況を抱え、大蔵省内部で、専門の財政学者等を交え、具体的な対応策が検討されていった。1946(昭和21)年度予算を概観すると、普通歳入120億円に対し、歳出は172億円、うち78.3億円が臨時軍事費借入金利子や補償金利子も含めた国債費であった。

 大蔵省内では、①官業および国有財産払い下げ、②財産税等の徴収、③債務破棄、④インフレーション、⑤国債の利率引き下げ、が選択肢に上るなか、GHQによる押し付けではなく、あくまでわが国自身、財政当局の判断として、「取るものは取る、返すものは返す」という原則に象徴される対応が決定されていった。

 具体的には、一度限り、いわば空前絶後の大規模課税として、動産、不動産、現預金等を対象に、高率の「財産税」(税率は25~90%)が課税された(=「取るものは取る」)。それを主な原資に、内国債の可能な限りの償還が行われ、内国債の債務不履行そのものの事態は回避された(=「返すものは返す」)。他方、戦時補償債務については、これを切り捨てる決断を下し、国民に対して政府の負っている債務と同額での「戦時補償特別税」の課税も断行した。そして、これらの課税に先立ち、順番としては一番先に(1946<昭和21>年2月)預金封鎖および新円切り替えが行われている(図表2)。