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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

コロムビアとビクター2社を日産から買収した
東京電気・山口喜三郎のテレビへの執念(1937年)

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第45回】 2014年2月7日
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鮎川義介=日産コンツェルンが日本蓄音器商会(日蓄コロムビア)と日本ビクターを1937年末に売却した先、東京電気は東京芝浦電気、つまり現・東芝の母体である。日蓄の2代目社長J.R.ゲアリーは東京電気副社長だったはずだ。2大レコード会社を手に入れた東京電気(東芝)は1938年から戦後の混乱期まで、約10年間、両社を傘下におさめていたのである。

日産が日立に売却しなかった理由

 東芝は戦後、過度経済力集中排除法の議論の中で日本コロムビアと日本ビクターを手放すことになるが、1955年には単独で音楽事業に乗り出し、60年に分離して東芝音楽工業を設立する。

 本田美奈子さんの1993年のアルバム「Junction」のプロデューサー、渋谷森久さんは設立2年目の東芝音楽工業に入社している(連載第8回)。62年に日本コロムビアと英EMIの業務契約期間が終了すると、東芝はEMIの英コロムビア音源を取得し、すでに発売権を持っていた英グラモフォン(HMV)音源とともにEMIのすべての音源を手中にする。

 1973年にはEMIが東芝音楽工業に出資し、合弁会社の東芝EMIとなる。本田美奈子さんのデビュー12年前のことだった。本田さんは85年に東芝EMIからシングルEP「殺意のバカンス」でデビューし、90年まで契約が続いた。当時、ビートルズやクイーンを擁するEMIは、強大なレコード会社になっていた。

 本田さんは1986年にクイーンのブライアン・メイによるプロデュースで「GOLDEN DAYS/CRAZY NIGHTS」を欧州で発売しているが、これもEMIのグローバルなネットワークによるものだった(連載第23回)。

 鮎川義介は、日産の満州移駐の際、コロムビアとビクターをどうして東京電気に売却したのだろうか。日産コンツェルンには巨大な電機メーカー、日立製作所があったのに。

 当時の関係者の証言を読むと、「日立より東京電気のほうが弱電に強く、技術の優位性を鮎川が見て、あえて東京電気に売却した」と解釈できる。

 東京電気無線社長、東京芝浦電気取締役、日本テレビ社長を歴任した清水与七郎はこう書いている。

 「鮎川さんが満州重工業(開発)を引き受けられ満州へ転出されるときに、ビクター、コロムビアの事業は日本に残して行かれることになった。このとき普通の人であれば、両社の株式を自分ともっとも関係の深い日立製作所に譲らるべきところを、鮎川さんは敢てこれを日立のライバルである東芝に譲ることに決定された。当時日立は同じ電気メーカーであってもこの部門では東芝に遅れているということが理由であった。私はそのころ東芝にいたので、山口社長の代理として、鮎川さんの代理である浅原源七さん(注・1891-1970、戦前と戦後の日産自動車社長)とこの話をまとめた」(清水与七郎「飽くまで筋を通す鮎川さん」、『鮎川義介先生追想録』1968)

 ちょうど東京電気と芝浦製作所の合併交渉が進んでいた時期で、当時の関係者は「東京電気」と合併後の「東芝」を混同しているようだ。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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