メアリー・パーカー・フォレット メアリー・パーカー・フォレットは、心理学的洞察と社会科学的知見を初めて産業組織の研究に応用した人物の一人で、ドラッカーやモス・カンター、ミンツバーグといった多くの著名なマネジメントの思想家に、偉大なマネジメントの哲学者として認められている。

 彼女の研究は企業という集団における人間関係に着目しており、多くの実業家が彼女の思想を実務に取り入れる価値を確信している。彼女はビジネスを人間関係問題の解決法が実際に試されている先駆的な分野と捉えており、最終的にはそれがその他の社会領域にも恩恵をもたらすと考えていた。

 第二次世界大戦後、日本の経営文化や経営慣行の形成期に影響を与えた以外は、彼女の思想はおしなべて無視されていた。しかし現実には彼女の研究は、参加意識や機能横断的コミュニケーションといったものを強調する現代の西洋的アプローチの予兆であり、中には先行している部分さえあった。

 1960年代以降フォレットに関心が寄せられるようになったのは、彼女の研究をよみがえらせ普及させるために尽力したマネジメントコンサルタントで著述家のポウリン・グラハムに負うところが大きい。

人生と業績

 マサチューセッツ州ボストンの裕福な家庭に生まれたフォレットは、12歳で学校を卒業した優秀な学生だった。彼女はボストンのセイアー・アカデミーに学び、マサチューセッツのラドクリフ・カレッジに入学した。20歳のときハーバード大学付属女子学部に入学した。1890年には22歳の学生としてケンブリッジ大学ニューナム校で1年間を過ごし、その後大学院生としてパリに赴いた。

 マネジメントコンサルタントで著述家のポウリン・グラハムはフォレットを、ハーバードで法律、経済、行政、哲学を学び、ニューナムで歴史と政治学を学んだ博学者と記録している。フォレットがケンブリッジ時代に書いた論文は後に最初の著書である『The House of Representatives』へと発展した。これは、セオドア・ルーズベルトが1896年10月の「アメリカ歴史評論」(American Historical Review)誌で書評欄に取り上げるほど真剣に受けとめられた。

 フォレットの家庭生活は順風満帆ではなかった。彼女が慕っていた父親は彼女が10代の初めの頃に亡くなった。彼女の母親は病弱で、フォレットとはあまり折り合いが良くなかった。幼い頃からフォレットは家計のやりくりを任されていたが、そのうち家の収入もすべて彼女の肩にのしかかるようになる。

 やがてフォレットは家族との縁を絶ち切り、友人であるイソベラ・ブリッグスと同居するようになった。その後30年以上にわたってイソベラは安定した家庭生活を提供し、彼女の交友関係もフォレットの研究に役に立った。イソベラが1926年に亡くなったとき、フォレットはいちばんの親友だけでなく家庭生活も失った。その年の終わりにフォレットはキャサリン・ファース夫人に出会う。彼女はイギリス人女性で、ガールガイド運動に強く傾倒していた。フォレットはその後イギリスに移り、チェルシーでファースと同居するようになった。