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めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編

“教室外”でも大活躍?
シュンペーターの「アラビアン・ナイト」

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第26回】 2008年10月1日
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 1909年10月から1911年12月まで准教授として勤務していたオーストリア帝国ブコヴィナ州のチェルノヴィッツ大学は、1827年に設立されたチェルニウツィ高等工科学校を継承し、1875年にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフによって大学となった。この年からハプスブルク体制が崩壊する1918年までドイツ語で教育していた。地元の言語であるウクライナ文学とルーマニア文学は、分離された学科にあった。シュンペーター准教授もドイツ語で教えていたわけだ。

 チェルノヴィッツ大学(現在のユーリ・フェドコヴィッチ・チェルニウツィ国立大学 ※注1)のホームページによると、シュンペーター在籍時の学部は3つ。神学部、法学部、哲学部である。ウクライナ文学科とルーマニア文学科は哲学部にあった。シュンペーターは法学部の教官だ。

 担当科目は、オーストリアの法学部で標準化されている経済学のコース(必修)として、『経済学の原理』『財政学の原理』『政治経済学』である。さらに選択科目として『社会科学および経済学史』『社会階級論』などを担当していた(※注2)。

 この2年間で、シュンペーターは以上のかなり多い講義をこなし、東方のエキゾチックな文化に遊び、代表作『経済発展の理論』(Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung,  Leipzig : Duncker & Humblot, 1912)を書き上げたのだから恐れ入る。26歳から28歳のことである。

シュンペーターの
「アラビアン・ナイト」

 チェルノヴィッツ大学時代、2年間のエピソードについては、少しだけ記録がある。シュンペーター没後、1951年に出版された『社会科学者シュムペーター』(邦訳出版は1955年 ※注3)の中に、「ハーバード大学連合教授会公式記録」(※注4)が収録されており、ここにちょっとだけ出てくる。

 「まことチェルノヴィッツは東方的であったらしく、後日、本学における彼の同僚達は、その当時のことについて、アラビアン・ナイト物語の一篇かともまごうばかりの彼の教室外での活躍綺譚の数々を聞かしてもらって喜んだものである。」

 「アラビアン・ナイト」とは、弟子であった都留重人氏も同じ表現を使っていた(連載第25回参照)から、周囲はみんな「シュンペーターのアラビアン・ナイト」と評していたのだろう。

 ロバート・アレン先生によるシュンペーターの評伝(※注5)にも「アラビアン・ナイト」が出てくる。それによると、「(ブコヴィナの)女性たちとの乱痴気騒ぎぶりをハーバードの同僚たちに話している。中でももっともシュンペーターが好きな挿話はこのような話だった。ある地主と彼の土地を歩きながら農業経済について議論していたとき、若くて魅力的な小作農家の娘に出会った。かの地主は急に議論を止めると、娘と睦みあいはじめた。地主はシュンペーターも誘った。その後、2人は歩き出して議論を再開した」。

 うーん。これがアラビアン・ナイトか。ほとんど猥談のたぐいだが。ハーバード大学経済学部の上品な先生たちにはショックだったかもしれないが、シュンペーターに煙に巻かれたのだろう。ただ、女性たちがものすごく魅力的だったことは想像できる。欧亜の接点で風俗や民族が交差しているわけだから。

 なお、この猥談、じゃなかった「アラビアン・ナイト」はエドワード・メイソン(ハーバード大学教授)がシュンペーター自身から聞いた話を元にしているとアレン先生は注釈している。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編

「経済成長の起動力は企業家によるイノベーションにある」とする独創的な理論を構築したシュンペーターの発想の冒険行を、100年前のウィーンから辿る知の旅行記。

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