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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

佐野学は獄中で共産党を脱党し「転向」、
東海林太郎はクラシックから流行歌へ転進

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第52回】 2014年5月30日
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1929年6月、モスクワ、インド、上海でコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指示による活動を続けていた日本共産党中央委員・佐野学がついに検挙された。9月に日本へ送還、治安維持法違反で起訴され、32年に無期懲役刑を受けて市谷刑務所へ収監される。佐野が早稲田大学商学部講師として指導した東海林太郎は23年9月から30年8月まで、南満州鉄道(満鉄)調査課にエコノミストとして勤務していた。

佐野学は島村抱月の同僚の女婿だった!

 連載前回、商学部で出会ったこの経済学の師弟について書いた。どうにも不思議だったのは、すでに東京帝国大学の学生、院生時代から革命運動で勇名を馳せていた佐野が、どのようにして早稲田大学商学部の講師に就いたのか、である。早稲田の前は満鉄に短期間勤務していたが、満鉄にはマルクス主義者が大勢いて、優秀ならば多少の思想的問題はかまわない、とする知的風土があったことはよく知られている。早稲田はどうだったのだろう。

 佐野の年譜(『佐野学著作集第五巻』所収、1958)には故郷の「大分県立杵築中学を中退すると、東京の麻布中学に編入」、とある。どうして簡単に東京の有名私学に入れたのか、これも不思議だった。戦前の資料にあたるしかない。

 佐々木敏二(日本思想史)の論文を読んでいたところ、佐野の履歴についてこう書いてあった。

 「(略)家は代々医者で父は松平杵築藩主の藩医であった。長兄彪太は駿河台の佐野病院長で、その妻は後藤新平の養女であった。杵築中学四年の時、校長排斥運動を起こしてストライキをやり、その時山羊の首を先祖伝来の日本刀の先にさして、『校長の首もこの通りだぞ』と叫んだというが、このために退校を命ぜられた。(略)満鉄を辞めて後、嘱望されて早大教授文学博士金子馬治の娘と結婚し、早大講師となる」(佐々木敏二「『新人会(前期)』の活動と思想」、1968)。

 武勇伝はともかく、東京・駿河台で病院を経営していた長兄がいたのだから麻布中学へ編入できたのだろう。かなりのエスタブリッシュメントの家系である。驚いたのは、佐野学の夫人が金子馬治の娘だったということだ。金子については後述する。

 戦前の書物を乱読していたところ、『学界異聞』という大学のスキャンダルを集めた本を発見した。タイトルはいささか怪しげだが、内容はよく調査されたものだった。この本にはこう書かれている。

 「佐野氏は当時早大商学部の講師で、経済史を講じていた。傍ら労働運動にも関係し、その進歩的言説は、若いワセダニアンの心臓に触れるものがあり、北澤新次郎教授の商学部における人気を一挙にして奪った形になった。そして大山郁夫教授と共に、学生の急進分子を結成した思想団体早大文化会を指導し、学校当局からは社会主義的色彩の強い教授として目されていた。しかし当時にあっては、多少社会主義的であるといふことが、早大としても学生の人気を呼ぶ一つの手段になり得たし、その上佐野氏は、文学部の元老金子馬治博士の女婿でもあったから、特にどうといふことはなかったのである」(大塚虎雄『学界異聞』先進社、1931)。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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