6月8日の朝日新聞朝刊に「安全保障とは」という問いに対し「国が安全でいられるよう軍隊で守ること」との答えが出ていて、唖然とした。これでは「安全保障」と「防衛」は同意語となってしまう。安全保障は軍事力だけではなく、外交や情報、経済関係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保されることは常識だ。戦史、軍事史を振り返って、安全保障=軍事力という理解が、いかに危険なものであるかを検証してみよう。

朝日新聞の解説に唖然

 6月8日の朝日新聞朝刊3面トップは、「集団的自衛権・優しい表現で考える」という解説記事だったが「安全保障とは」という問いに対し「国が安全でいられるよう軍隊で守ること」との答えがあり、それが見出しにもなっていたのには唖然とした。これでは「安全保障」と「防衛」は同意語となり、軍事力を増強すればそれだけ国の安全度は高まるということになる。軍隊一辺倒の安全保障論だ。

 軍事力が国家の安全保障にとって重要な要素であることは確かだが、戦史、軍事史を知る者にとっては、安全保障は軍事力だけではなく、外交や情報、経済関係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保されることは常識だ。一国が自国の安全保障を考えて軍事力を増強すれば、それと対抗関係にある他国も増強して軍備競争になりがちで、相手も強くなれば金は掛かるが安全性は一向に高まらず、互いの破壊力が増すから、かえって危険にもなりかねない。

「大災厄」を招いたドイツの大艦隊

 その一例は第一次大戦前のドイツとイギリスの「建艦競争」だ。1871年、普仏戦争を勝利に導きドイツ統一を実現した宰相ビスマルクは、フランスの報復戦を警戒して、イギリスとの友好関係を保ったが、1890年に彼を罷免して実権を握った独皇帝ウィルヘルムⅡ世(当時31歳)は大海軍を造って海洋進出を目指した。1896年のドイツは戦艦6隻を保有するだけだったが、1898年の「艦隊法」では戦艦19隻、巡洋艦32隻を目指し、その2年後1900年の「第2次艦隊法」では1917年までに戦艦38隻、巡洋艦58隻などにする壮大な計画となった。

 これは英国の海洋支配を脅かすだけに、英国は露、仏を仮想敵とし、独とは友好的だった従来の姿勢を一転し、日本、フランス、ロシアと同盟や協商関係を結ぶとともに、ドイツをしのぐ急速な海軍拡張に向かった。1909年には戦艦8隻建造の予算が付き、10年以降も毎年戦艦5隻を発注することになった(注・近年日本ではWar Ships[軍艦]を誤って「戦艦」と訳す例が多い。戦艦[Battle Ships]は大口径の砲を搭載、重装甲で砲戦を専門とする艦で、軍艦中の一種。念のため)。

 当時のドイツにとり、イギリスは第1の輸出相手国、イギリスにとっては、ドイツは最大の投資相手国で、経済の相互依存関係が確立していた。またウィルヘルムⅡ世は英国のヴィクトリア女王の孫であったことが示すように、両国の上流階級は複雑な親族関係で結ばれ、政体(立憲君主制)でも、「価値観」(植民地支配を是認)でも本質的な差異はなかった。だが建艦競争による対立意識を双方の海軍当局、造船・兵器産業、新聞、出版社が煽り立てたため英独民衆の敵意が高まった。