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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

生誕100年「ブギの女王」笠置シヅ子に
出会った服部良一の戦中と戦後

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第56回】 2014年7月25日
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服部良一(1907-93)が笠置シヅ子(1914-85)に初めて会ったのは1938(昭和13)年だったらしい。前年に淡谷のり子の歌唱で「別れのブルース」と「私のトランペット」を発売し、38年には「雨のブルース」と「思ひ出のブルース」を発売し、和製ブルースが大流行した年だった。笠置シヅ子は当時、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)のスターだった。

松竹歌劇部の有為転変

 芸名の「笠置シヅ子」の表記は、じつは1957(昭和32)年に歌手から女優へ転身する際に「シヅ子」としたもので、1927年に大阪の松竹楽劇部生徒養成所に入学し、同年にデビューしたときは「三笠静子」、35年からは「笠置シズ子」を名乗っていた。ややこしいので、本稿ではすべて「笠置シヅ子」とする。

ベスト盤「笠置シヅ子~ブギの女王」(日本コロムビア、2010)のジャケット。ロック歌手のような地声の迫力、スイングのドライブ感も素晴らしい

 松竹楽劇部は、阪急の宝塚少女歌劇団(1914年第1回公演)の成功をにらんで松竹の会長・白井松次郎(1877-1951)が1922年に大阪で設立した少女歌劇団である。指導者や作曲家は宝塚から引き抜いた。第1回公演の演目は「アルルの女」だった。

 阪急、宝塚、東宝の創始者、小林一三(1873-1957)は後年、こう書き残している。

 「(「アルルの女」の)振付は楳茂都、作曲及び声楽は原田潤氏、オーケストラの指揮は松本四郎氏、この三先生を宝塚から引抜くことによって、松竹少女歌劇は創設されたのであるが、その当時宝塚はどんなに苦しんだかを思い出した。/爾来いつもいつも宝塚は引き抜かれるだけである。然し我々は、窃盗に這入っ奪いとるよりも、とられる方が倖せの身分であることを知っている。いつの世にも『世に盗人の種はつきまじ』と石川五右衛門のセリフを知っているから、この先々も窃盗に犯されぬように注意する必要がある、と警告するのである(二六・二)」(小林一三『宝塚漫筆』阪急電鉄、1980)。

 松竹を石川五右衛門になぞらえているのだから、小林一三の怒りは長く続いたのだろう。この文章は1951年に書かれたものだ。

 松竹楽劇部の本拠地は大阪・道頓堀の松竹座だった。1928年には東京松竹楽劇部が発足し、東西2劇団体制となっている。これは宝塚よりも早い。東京宝塚劇場(東宝)のオープンは1934年である。

 1933年に東京松竹楽劇部は松竹少女歌劇団(後のSKD)、34年に松竹楽劇部は大阪松竹少女歌劇団(OSSK)へ改称した。

 名称の異動が非常にややこしい。戦後SKDで知られた松竹歌劇団は東京の松竹少女歌劇団の後身、現在も大阪を本拠に興行を続けているOSK日本歌劇団は、OSSKの後身である。歴史的な名称を継承しているのでOSKを冠している。

 ちなみに、東京のSKDは1996年に解散、大阪のOSKは1971年から近鉄の経営となる。2003年に近鉄の経営危機で解散したが自主公演を続け、07年に大阪のワンズカンパニーというイベント会社の経営となり、09年からは株式会社として運営されている。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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