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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

交響楽団でオーボエとフルート、ジャズバンドで
サックスを掛け持ちしながら楽理を学んだ服部良一

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第54回】 2014年6月27日
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服部良一は1907(明治40)年、大阪に生まれた。富裕な家庭ではないため、当時の日本人の大多数がそうであったように、1922年に高等小学校を卒業するとすぐに就職する。大阪電通のトラフィック(連絡係)などで働きながら夜学の大阪実践商業学校に入学した。翌1923年9月1日、姉が勤務していた出雲屋の少年音楽隊に入る。3年制で、1年間の音楽教育期間を含めて月給が出たそうだ。当時、大阪でも三越、松坂屋、高島屋が少年音楽隊を運営していた。出雲屋は少年音楽隊を公募したばかりだった(文中敬称略)。

「出雲屋少年音楽隊」で5種類の楽器を学ぶ

 流通企業の少年音楽隊は、店のプロモーション用のバンド(オーケストラ)だが、入隊試験に合格した少年少女は音楽が得意で大好きで、楽器を学びたいという意欲に満ちていたのである。出雲屋は「いづもや」の店名で知られるウナギ屋チェーンだ。経営者の吉田安次郎が少年音楽隊結成の発案者だったという。服部良一は第1期生である。

 音楽教育はかなりきちんと行なわれていた。東京音楽学校出身で関西の宝塚などで仕事をしていた指揮者や演奏家が指導に当たり、楽器もそれぞれプロのプレーヤーがレッスンに来ていた。以下、事実関係は服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社、1993)による。

服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社、1993)の表紙。原本は中央文芸社から1982年に出版されたもの。日本のポップス黎明期が詳細につづられている。

 「ぼくは、ソプラノ・サックスをセルビア人のアダム・コバチ氏に習い、バンジョーを平茂夫、フルートを水野渚、オーボエを平石享二、ピアノを岩淵繁造の各先生方にきたえられるという忙しさだった。ロシア人のトランぺッター、ドブリニン氏や船のバンドの大先輩、バイオリンの田中平三郎氏なども教授陣に加わっていた。/楽器は、その前を通るごとにぼくが店頭で眺めていた道頓堀の今井楽器店から購入の、アメリカのC・G・コーン製の極上品、そのころとしては珍しいサキソホンが十丁もあって、サキソホン・ファミリーを作ってみたり、いろいろ新しい企画を打ち出して話題を呼んだものである」(服部良一、前掲書、1993)

 相当恵まれた教育環境である。コーンの管楽器でそろえるとは。かなりの投資額だったはずである。5種類の楽器を習得するカリキュラムだから、なかなか厳しい練習が続いたことだろう。最大30人編成の吹奏楽団になったという。

 しかし、出雲屋少年音楽隊発足時に起きた関東大震災後、膨大な不良債権を抱えた金融機関や商社の経営が次々に行き詰まり、日本経済は爆弾を抱えたまま不況に入っていた。百貨店の少年音楽隊も次々に解散し、後発の出雲屋少年音楽隊も3年の活動ののち、1925年5月に解散してしまう。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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