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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

「蝶々夫人」を1910-30年代に欧米で歌った
ソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第58回】 2014年8月22日
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本田美奈子さんが初めてオペラのアリアをオーケストラの伴奏で歌ったのは1996年、「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」だった(連載第12回)。その後、1999年に福井で、2000年にはシドニー・オペラハウス(連載第17回)でプッチーニのスコアどおりに歌っている。また、管弦楽ではなく、伴奏を小編成のアンサンブルにアレンジした楽譜では、2000年の青山劇場、2004年の東京文化会館でも歌っている。日本コロムビアではレコーディングするプランもあったという。

「ミス・サイゴン」と「蝶々夫人」

「本田美奈子15周年リサイタル歌革命」(2000年10月13日、青山劇場)で「ある晴れた日に」をアンコールで歌ったときの写真(BMI提供)

 すでにクラシックに乗り出していた2004年の彼女の歌唱を記録用ビデオで聴くと、それ以前よりも声楽寄りの発声に変わっている。音量もあがり、長年の鍛錬の成果があらわれていた。正規の録音が存在しないのは残念なことだ。

 本田美奈子さんは1992-93年、「ミス・サイゴン」で帝国劇場に初出演しているが、「ミス・サイゴン」は「蝶々夫人」を翻案したミュージカルで、舞台を日本からベトナムに置き換えているが、ストーリーはほとんど同じである。

 「ミス・サイゴン」で圧倒的な名演を聴かせた本田美奈子さんを「蝶々夫人」へ導いたのは作曲家の三枝成彰さんで、3年後の1996年に実現している。「ミス・サイゴン」の主人公キムは17歳、蝶々夫人は15歳の少女だ。役柄からみて童顔で華奢な本田さんはぴったりである。

 むろん、オペラはマイク(PA)を使わないので、根本的な発声法と音量はけた違いに難しいのだが、本田さんがそのまま経験を積めば、45歳くらいで原典通りの「蝶々夫人」を全曲歌うことも可能だっただろう。それに、45歳で15歳の少女を演じることのできる可憐さも維持していたに違いない。本当に残念だ。

 

英国か米国で「蝶々夫人」に出演した初期、1910年代の写真。時期は不詳。「比類なき“バタフライ”」と書かれている(三浦環『歌劇お蝶夫人』【音楽世界社、1937】より)

 「蝶々夫人」は1904年2月17日、今から110年前にミラノのスカラ座で初演されているが、上演時間が長すぎたため不評で、ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)はただちに改訂して短縮し、5月28日にブレシアのテアトロ・グランデで改訂版を初演した。これは大成功をおさめ、彼の代表作としてヨーロッパやアメリカの劇場で上演されるようになる。今日でも世界中のオペラハウスで頻繁に取り上げられている人気演目だ。

 プッチーニは存命中に日本人歌手の「蝶々夫人」を見ている。その日本人ソプラノ歌手が三浦環(みうらたまき、1884-1946)だ。彼女は欧米で2000回も「蝶々夫人」のタイトルロールを演じたという。日本でも超有名歌手として1920-30年代に多数のレコードを発売している。クラシックはもとより、流行歌も録音していた。

 今回から第2次大戦前にグローバルな活動を行なっていた三浦環について紹介する。彼女はどのようにして欧米で活動するチャンスをつかんだのだろうか。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


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日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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