生活保護世帯の子どもたちは、生活保護を利用していることに対して、どのような責任もない。もし親に多大な「自己責任」があるとしても、子どもは親を選んで生まれてきたわけではない。

では日本の大人たちは、そうした生活保護世帯、低所得世帯の子どもたちに、親や育つ家庭がどのようであれ、健全な育ちの機会と充分な教育を保障することができるだろうか?

「生まれ」は選べないのに?
拡大・固定化する格差

 生活保護不正受給や、生活保護利用者たちの一部の逸脱した行状は、センセーショナルな報道の対象となりやすい。そのような報道はしばしば、人々の感情を、

「税金で養ってもらっている生活保護利用者なのに!」
 「生活保護なんだから、もっと劣悪な生活をしているべきなのに!」

 という方向に動かしてしまう。

 しかし、その同じ人々も、

「税金で養ってもらっている生活保護世帯の子どもなのに、一般世帯の子どもと同じような生活をするなんて!」
 「生活保護世帯の子どもなんだから、もっと劣悪な生活をしているべきなのに!」

 とは考えないことが多い。

 子どもは、親や生育環境を選んで生まれてくるわけではない。生活保護世帯の子どもたちは生活保護受給者ではあるが、どのような意味でも「自己責任」とは無関係だ。親には、何らかの「自己責任」を問われる余地があるかもしれない。でも、親がそうであるとしても、子どもは巻き込まれることを余儀なくされた立場にある。

 昨今の日本が、まぎれもなく「格差社会」であることは、否定のしようがない。格差は拡大しつつあり、なおかつ固定化しつつある。親の教育努力や子どもの自助努力と関係なく、「親が上流層(下流層)だったら、子どもも上流層(下流層)」となりやすい。しかし未だ日本には、

「本人が選びたくても選ぶことのできない理由で、本人が生涯にわたって何らかの不利益を被り続けることは望ましくない」

 という考えを心の底に抱いている人々が少なくないのではないだろうか?

 戦後民主主義社会は、不完全ながら、親の属する階層・親の文化などから子どもが離脱する自由を保障してきた。その最後の残照くらいは、未だ日本に残っていそうだ。

 このことを念頭において、子どもの貧困をめぐる近年の動きを見てみよう。