「反富裕」という言葉がある。格差社会解消をめざすある種の若者たちが、活動スローガンとして使っている言葉のようだが、11月23日の「勤労感謝の日」にも「反富裕」を掲げたデモが、新宿あたりで行われた模様だ。
言いたいことは分かる。経済的格差をなくし、貧困をなくし、社会的・経済的弱者も幸福に暮らしていける社会を作ること。そこをめざす姿勢や考え方を批判はしない。というか、その点については同感だ。しかし、「反富裕」というスローガンにはなんとも言えない違和感がつきまとう。どこかマヌケなのだ。そして、このマヌケな感じが、社会変革をめざすいまの若者が置かれた困難な状況を物語っている。
「反富裕」と「反貧困」の大きな違い
反富裕がなぜマヌケなのか? それは、この言葉を聞いたときに、「おいおい、どっちに向かって石を投げてんだよ?(方向が違うだろう?)」と感じさせてしまうからだ。
同様の目的を持ったスローガンとして「反貧困」という言葉もあるが、こちらはめざすところは同じでも、強いメッセージ性がある。説得性もある。しかし、「反富裕」という言葉には、メッセージ性も説得性も感じられない。それは、反貧困とベクトルが違うからだ。
そもそも「反戦」とか「反核」とか、「反〜」という言葉は「〜をなくす」という意味が含まれている。戦争をなくす、核兵器をなくすことをめざすという意味合いだが、これは分かりやすいし、活動の方向性としても(方法論的な議論は別にして)間違ってはいない。
「反貧困」も同様だ。「貧困をなくす」ということは、日本に限らず世界的な課題だし、普遍的で大きな課題でもある。しかし、「反富裕」となるとちょっと違う。この言葉には「富裕(層)をなくす」という意味が含まれているし、世界的には富裕層に対する極端な富の偏在が問題になっていることも確かだ。
しかし、富裕層ビジネス業界においても「本当の富裕層は存在しない」と言われるこの日本において、富裕層をなくすことが本当に(日本における)貧困の問題を解決するかというと疑問だ。日本という社会はすでに富裕層からは十分に金を取っているという議論もある。こちらのブログによれば、日本は法人税も高く、年収5000万円以上のフローリッチ層への税率もイギリスに次いで2番目に高い。