すでに起こった未来
ダイヤモンド社刊
2415円(税込)

「私は自分が何であろうとしてきたかを知っている。私は自分が社会生態学者だと思っている。自然生態学者が生物の環境を研究するように、私は人間によってつくられた人間の環境に関心をもつ」(『すでに起こった未来』)

 社会生態学とは、ドラッカーの造語である。しかし、1つの体系として、社会生態学は由緒ある系譜を誇るという。

 ドラッカーは、しばしば未来学者と呼ばれる。しかし、もしドラッカーが絶対にそうでないもの、あるいは社会生態学者がそうであってはならないものを一つ挙げるとするならば、それは未来学者と呼ばれることだと言う。

 未来を予測しても無駄である。人にできることではない。コンピュータが絵解きするなどという考えは、あまり賢いとはいえない。

 予測にかかわる最大の問題は、優れた予測家が予測さえしないことのほうが、予測したことよりも常に重要であるという事実にある。未来学者は、予測したものがどれだけ実現したかによって的中率を測る。実現した重要なもののなかで、予測しなかったものがどれだけあるかは数えない。

 これに対し、社会生態学はすでに起こったことを見る。そこからすでに起こった未来を見る。

 「重要なことは、すでに起こった未来を確認することである。すでに起こり元に戻ることのない変化、しかも重大な影響をもつことになる変化でありながら、未だ認識されていないものを知覚し、かつ分析することである」(『すでに起こった未来』)