3月25日、東京都新宿区の超高層ビルに本社を構える外資系生命保険会社アフラックの社内には、少なからぬ衝撃が走った。

「大竹最高顧問のご退任にあたって」――。チャールズ・レイク会長と山内裕司社長の連名で、アフラック日本社の創業者である大竹美喜氏の退任を知らせる文書が、掲示されたからだ(正式な退任日は3月31日)。

アフラック現経営陣が画策か!?<br />大竹美喜・最高顧問が“退任”3月25日付の大竹美喜・最高顧問の退任を知らせる社内文書。チャールズ・レイク会長と山内裕司社長の連名で、大竹氏の功績をたたえている

 日本語と英語で書かれた社内文書(写真)には、日本社創業(1974年)の2年前に日本初の「がん保険」の発売に向け、各方面への折衝に奔走したことや、その後の功績をたたえる文章が書かれている。後半には、大竹氏の「最高顧問退任にあたって」との思いをつづった文章も添えられている。

 確かに、今のアフラックに加え、当たり前のように販売されているがん保険は、大竹氏の存在を抜きには語れない。これらについては、大竹氏の著書『人生大学』(扶桑社)に詳述されているので、ひもといてみよう。

 大竹氏が、米アフラックの創業者エイモス3兄弟から日本進出の打診を受けたのは、1972年のこと。当時、大竹氏は外資系損害保険会社AIUのトップセールスマンを経て、自身で代理店を立ち上げたばかりだった。

 大竹氏は悩んだ。というのも、米国でも珍しかったアフラックのがん保険はむろん、日本での知名度はゼロ。それどころか、がんは不治の病として忌み嫌われており、「とても日本で普及するとは思えない」という意見が大半だった。

 また、大竹氏は、同時期に手伝っていたアリコジャパン(現メットライフ生命保険)の設立認可が難航した経験から、外資系生保が日本で認可を取得する難しさが肌身に染みてもいた。

 だが、大竹氏はがん患者やその家族の苦悩を知り、がん保険が持つ社会的意義の大きさを感じたという。しかも、保険業界は画一的な商品を提供するのみでリスクを負わず、顧客が本当に求めている保険商品を提案していないとの思いも強かった。ならば、「誰もやらないなら私がやろう」とアフラック日本社の設立を決意した。