ハーバード・ビジネス・レビュー編集部がおすすめの経営書を紹介する新連載。第5回目は、Airbnb、ピンタレスト、フェイスブック、ツイッターなどに投資するシリコンバレー有数のベンチャーキャピタルファンド、アンドリーセン・ホロウィッツの共同設立者、ベン・ホロウィッツの『HARD THINGS ハード・シングス』を取り上げる。

 

 エネルギーに満ち溢れ、未来を語り、人を惹きつけずにおれない、生まれながらの起業家タイプの知人がいた。自ら興した会社を育て上げ、売却したという。傍目には、いかにも成功ストーリーのように見えた。しかし、ひとしきり話した後にこぼれ出たのは、「正直、ほっとした」という一言。トラブル対処と金策に走り回り、しかもそれを顧客や社員に気取られてはならない毎日。起業して以来、初めて心おきなく眠れるようになったそうだ。

 本書『HARD THINGS ハード・シングス』は、起業家としてあらゆる困難を体験したベン・ホロウィッツの自伝的教訓書である。本人が冒頭で述べているが、世にある経営自己啓発書に対する「これじゃない」感覚をぶつけた、パンチの効いた本だ。モザイク開発者でネットスケープの生みの親、盟友マーク・アンドリーセンとの出会い、首の皮一枚で会社を売り抜け、嘘やごまかしを目の当たりにして時に口汚くののしり、資金がショートし、ドットコムバブル崩壊に巻き込まれ……。ありとあらゆる種類の「苦難」に直面したとき何を考え、どう行動したかが赤裸々に語られる。仮にこの本が映画やドラマになったとしたら、Fワードの嵐になるのでは? 危機迫るジェットコースターの原因は、たいていカネの問題とヒトの問題である。実体験を通じて得られた教訓は、有無を言わせぬ説得力がある。

 エンタテイメントジャンルについてはわからないが、ことビジネス書のジャンルでいえば、アメリカで売れるが日本では売れづらい本の種類として、自伝・評伝の類がある。提示されているのは個別解であり「あの人だからできた」「あの状況だからできた」と思われがちで、再現性がないとみなされてしまうのかもしれない。

 本書前半では幼少期の気づきに始まり、妻との出会いや父の時宜をえたアドバイスなど、ホロウィッツのプライベートな側面を伺い知ることができる。あえてプライベートを述べることの理由は本書後半で明らかにされるが、自伝評伝の価値の一つは、その人となりを通じて、他者の(しかも選りすぐりの人物の)思考の軌跡をトレースできることにあるのではないか。「あの人ならこう考えるかもしれない」という脳内シミュレーションの引き出しは、確実に自分のアイデアを広げてくれるし、陥りがちなパターン化の罠を避けることにもつながる。そして経営にそもそも答えはない。すべて個別解なのだから、自伝評伝で優れたベンチマークを得られるなら安いものだと思う。

 スタートアップ企業の課題と、大企業の課題は違うかもしれない。しかし、なぜ人材育成が必要なのか、組織に実行させるために何をすべきか、社員の評価や面談はどうあるべきか、企業文化をつくることの意味などは、企業規模や成長フェーズを問わない問題であろう。本書では平時のCEOと戦時のCEOの違いが折に触れて述べられているが、いまや大企業とて、平時のほうが少ないのではないか。

 かつてGEの後継者育成プログラムをつくり上げた元ハーバード・ビジネススクール教授のラム・チャランは、CEO育成のもっとも重要な要素として「修羅場を経験させる」ことを挙げている。ホロウィッツも、CEO稼業は生まれつきの資質だけで済むほど簡単ではないと語る。これだけの修羅場を見れば、いま自分が直面している修羅場も突破口があるように思えてくるだろう。その意味でもお勧めの一冊だ。