デビッド・サーノフ(1891~1970)はメディアの開拓者だ。アメリカの大衆に娯楽を提供するマスメディアの手段としてのラジオやテレビを普及させた功労者でもある。
ロシア生まれのサーノフは1900年、少年のころアメリカに移住する。1930年には、ラジオコーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)の社長になっていた。商業ベースに乗るFMラジオの開発に力を注ぎ、続いて大衆のためにカラーテレビを生み出した。
RCA時代におけるサーノフの有名な成功物語の陰には、発明家エドウィン・H・アームストロングとの長年にわたる関係の、表には出ない話があった。もともと友情と互いの利益から始まった関係が、憎悪と無視に変わり、ついには1954年のアームストロングの自殺にまで行き着いてしまう。サーノフは1965年、RCAでの地位を息子のロバートに譲る。晩年は、自分が生涯を捧げて育てた会社RCAの近代化を推し進める息子の姿を、苦々しい思いで見つめた。
生い立ち
デビッド・サーノフはロシアのウズリアンで生まれた。父のアブラハムはユダヤ人の画家で、1896年にアメリカに渡っている。アメリカで十分な収入を得て、大西洋の向こう側から家族を呼び寄せる決意だった。そのためには4年の歳月が必要だった。
1900年7月2日、サーノフがマンハッタンに着いてみると、父はロワーウェストサイドにある質素なアパートを借りて、やっとのことで生計を立てていた。健康を損なって、実際にはとても家族を呼び寄せられる状態ではなかった。そこでサーノフはわずか9歳で、家族を養うための稼ぎ手になった。
まず始めたのは街頭でイディッシュ語の新聞を売る仕事だった。50部売るごとに25セントの収入になった。さらにその収入を補うために、毎朝別の新聞を配達し、地元のユダヤ教の会堂で歌ってわずかな謝礼をもらっていた。毎朝4時に起きて長時間働きながら、地元の学校、エデュケイショナル・アライアンスで勉強に励んだ。おかげで1年もしないうちに英語の新聞が読めるようになった。14歳で自分の新聞販売スタンドを持ち、父ときょうだいにも働いてもらっている。
成功への階段
同世代の何人かの偉大な企業リーダーと同じように、サーノフも電話会社に職を得たことから成功への道に踏み出すことになる。サーノフの場合、その電話会社はマルコーニ・ワイヤレステレグラフ社だった。その当時マルコーニが展開するアメリカの事業は、イギリスの親会社とは違って赤字が続いていた。サーノフはそのマルコーニでオフィスの雑用係として仕事を始めた。その後の60年、同社とその後身であるラジオコーポレーション・オブ・アメリカで働いた。40歳にならないうちにその社長になろうとは、ほとんど知る由もなかっただろう。
新入社員時代、サーノフはそのずうずうしさを発揮して直接マルコーニに会い、自己紹介した。この厚かましさが功を奏して下級無線技師に昇格し、さらにそれほど時間がたたないうちに主任検査技師になっている。