3月にフィリピン・シブヤン海の海底1000メートルで戦艦武蔵が発見され、考古学者や戦艦ファンの間では引き揚げを望む声が高まっている。引き揚げの可能性などについて、武蔵と同じく連合艦隊旗艦を務めた戦艦陸奥引き揚げたサルベージ業界の生き証人を直撃した。週刊ダイヤモンドの特集「陸vs海vs空 乗りもの王者決定戦」との連動企画。(聞き手/週刊ダイヤモンド編集部 千本木啓文)
戦艦陸奥の引き揚げは、1970年に山口県にある瀬戸内海の柱島沖で始まりました。当時、私は30歳で、海底の船体の状況を調べたり、ワイヤを通したりするダイバーに指示を出す技術者として臨みました。
陸奥引き揚げの現場は潮の速い海域で、ダイバーは苦労しました。今でこそ遠隔操作無人探査機(ROV)など機器が開発されていますが、当時は潜水用のヘルメットをかぶったダイバーが人力で作業をしていました。
水深42メートルの海底で30分以上の仕事をするのに、1~2時間も〝減圧〟をしなければなりません。一気に浮上すると潜水病にかかり、重大な後遺症、最悪の場合は死に至ります。これを防ぐために、当時は途中の水深20メートルなどで水圧の変化に体を慣らしてから浮上しなければなりませんでした。
船上のわれわれも毎日、夜まで減圧に付き合いました。水上からホースでヘルメットに空気を供給する作業が必要だからです。
夜中に船上から海を見ていた同僚は「ダイバーが出す白い空気の泡の浮き上がる黒い海面を見つめていて、この下に1100人の恨みをのみ込んだ陸奥の巨体が横たわっているのかと思うと、今にもその傷だらけの巨体が呻き出し、のたうち始めるような錯覚に襲われる」と話していました。
戦艦は、1000トン以下に分割してから引き揚げました。切断には水中電気切断機と火薬発破を使い分けました。
初めての爆破の時は、浮いてくる魚を捕まえようと数十隻の漁船が集まりました。発破後、大きなスズキやタイが浮き上がってきました。沈没船は、最高の魚礁なのです。
ようやくダイバーが戦艦の一部にワイヤを通し、初めて引き揚げられたのは船尾近くの第4砲塔でした。
27年ぶりに主砲が海上に姿を現したときには、どよめきが起き、なんとも言えない気持ちになりました。私は船の上で作業員に指示を出していました。周りでは、船に乗った遺族が息子や兄弟の名前を呼んだり、手を合わせたりしていたのを覚えています。
私は、すぐさま冷静さを取り戻しました。砲塔を落とさずに、保管したり、洗ったりするために近くの江田島まで運ばなければなりません。