経営者が「個人」に戻ったら
企業は生きていけない

 このようなことも考えています。少し難しい話かもしれませんが、私には京セラの社長である私と、稲盛個人である私という、2つの「人格」があります。京セラを代表する「公人」としての私と、「個人」としての私がいると言ってもいいでしょう。

 そして会社は毎日、1つの「生き物」のように、いろいろなことを決めていかなければいけません。つまり会社は生きているのですが、そこに生命と人格を注入するのは、社長である私にしかできない役割なのです。

 京セラという会社は、多くの社員が生活を預ける、非常に大事な組織です。にもかかわらず、株式会社という「無生物」であり、それ単体では生きていられない。私がトップとして、私の全生命と全人格を注入している間だけ生きていられます。社長が個人に返っている間は、呼吸も心臓も止め、生きているのをやめてしまうのです。

 私はそのことが心配で、個人としての自分に返れません。京セラという無生物に、四六時中生命を注入することが、私の役割なのです。そうすると、私が個人に返る時間がないことになりますが、家庭を犠牲にし、その他すべてのものを犠牲にしてでも、会社に生命と人格をつぎ込まざるをえないのです。それだけの打ち込み方ができない人は、経営をしてはなりません。そうでなければ、従業員にも株主にも、あらゆる人に迷惑をかけることになります。トップにいい加減な経営をされたのでは、誰もが不幸になっていきます。

 私はそのような心配をしているが故に、全身全霊を傾けて経営をしています。1年365日のうち半分以上は、アメリカやヨーロッパなどに出張しています。日本にいても、そのうちの半分ほどしか家にいられず、家族と会う機会もあまりありません。

 しかし幸いにして、3人の娘は、父親が家にいないことに対する不平不満も言わずに、私の事情をよくわかってくれています。家にいるごく短い時間、家族と会話する中で、必死になって生きている私の「生きざま」をたまに話すだけで、私が企業に全身全霊を打ち込んでいることをわかってくれているのです。

 ごく短い時間にしか個人に返れないので、その意味で私の人生は非常に不幸だと思われる方がいるかもしれません。しかし、私は自分の事情を家族に理解してもらっていますから、それでもいいと思っています。そうでなければ、おこがましく社長として人の世話をするわけにはいきません。

 (終わり)