「今月の主筆」の坂根正弘さん(コマツ相談役)は、管理職のある時期は当時の社長から「軍鶏(シャモ)」と呼ばれるくらい反抗心の強いところもあった。最終回の今回は、「軍鶏」と呼ばれた理由や、自身の経営観が誕生した背景を聞いた。(聞き手/『週刊ダイヤモンド』論説委員・原 英次郎)

経営観につながる三つの出来事

――坂根さんの経営観を形づくるきっかけとなったのは、どのような出来事だったのでしょうか。

坂根 自分の経営観につながっているものをあげるとすれば3つの出来事です。まず、初任時の製図の仕事が嫌で、クレーム対応に自ら進んで出かけることで品質管理やサービスの重要性を体感したこと。2つ目が、ワンマン社長体制の下、上司であった役員と私の会社人生で最初で最後の大喧嘩をして組織のあり方について考えるようになったこと。そして3つ目が、二度目のアメリカ赴任で現地企業との合弁会社である小松ドレッサー(KDC)の再建を通じてアメリカ式の経営を知り、日本経営の強さと弱さを客観的に理解できたことですね。

現場に興味がないトップが会社をダメにするPhoto by Yoshihisa Wada

――初任時の仕事は、そんなに嫌だったのですか。

坂根 本当に嫌でしたよ。開発担当と言えば聞こえはいいですが、要するに先輩たちが考えた新車の構想案・設計図から必要な部品一つひとつ図面に起こす作業。当時はコンピューターを使ったCADのようなシステムは無いので、設計図は鉛筆と定規を使って手で描くのが当たり前。私は大学では機械工学が専攻ですが、実はこの作業が大の苦手でした。当然の結果「坂根は仕事が遅い」と言われ、人事評価も最低ランク。当時のコマツでは、入社3年目くらいから評価が給料に少しずつ反映されるようになっていたのですが、同期と給与明細を見せ合うと私がいつも一番少なかった。

 製図から逃げたい一心で、サービス部門からお客様のクレームに関する情報が届くと自ら手を上げて現場に行き始めました。お客様の現場で初めて製品の全体的な構造や実際の使われ方を知ることができたりして、これが後々、品質管理やサービスを軸にしたビジネスのあり方や「ダントツ経営」を模索するきっかけになっていきました。

――二つ目の上司との大喧嘩とは、どんなものだったのですか。

坂根 私がアメリカ駐在中の82年にコマツでは18年ぶりの社長交代がありました。かつて私も部下として仕えた期待の人でした。だが、社長として会社を根本から変えようとする意識が強すぎたのか、会社はあっという間にワンマン体制に変わってしまった。

 実はこの時のアメリカ赴任から帰国してからの15ヵ月で、当時の会社のゴタゴタのしわ寄せを受け、6回もポストを変えられているのです。仕事はコマツにとって初めてとなる米国工場の準備室長や他社との提携といった大事な任務でしたが、私の会社人生で最も辛かった時期で、真剣に転職を考えたほどです。

 この時のいきさつはこれまでどこでも話したことのない内容ですが、若い読者の人に将来何かのヒントになるかもと思い、あえてお話しします。

 そういう社長の下には必ず虎の威を借りる人が出てきます。5回目に移った職場の役員だった上司もそうで、とにかく理不尽なことを押しつけてくる。ついに喧嘩になって「お前を他の職場に出す」と言われました。それで当時の人事担当役員に、「会社での喧嘩も両成敗でしょう。彼(上司)が何の責を受けず、私のみ転出するのは我慢ならないし、もし転出するなら国内のサービス部長を希望したい」と談判した。

 結局、上司は子会社に転任し、私は希望どおり国内サービス部長になりました。サービスは私が米国駐在時代に経験した非常に大事な仕事ですが、日々の地道なオペレーションが主たる仕事で、経営とは距離が遠い。「坂根もついに飛ばされた」と見る向きもあったかもしれませんが、私としてはむしろ清々した気持ちでした。

 ただ、この時の経験から、経営が暴走すれば先人が営々と築いてきた会社の強みや基盤があっという間に破壊されるという怖さを知り、その後組織づくりを考える基本的な発想になっていたように思います。

――KDCの再建を通じ、アメリカ式経営と日本式経営の両方の功罪を体験された。

坂根 KDCには社長兼COOとしての赴任でしたが、ここで経営の基礎を学ぶことができました。本当に貴重な機会でした。変動費の扱いをはじめアメリカ式経営の優れた手法を知る一方で、アメリカ式にはない日本式経営の現場力の強さの秘密も理解できるようになりました。その結果としてハイブリッド経営を考えるようになりましたが、KDCでの社長経験がなければ、こうした考え方をすることはなかったでしょう。