「賛成か、反対か」「イエスか、ノーか」。日本の政治・社会をめぐる言論状況は、近年こうした極端な二極化が目立つ。かつては見られた多様な意見、中道的なものの見方はどこへ行ってしまったのか? カナダ出身のスティーブン・ナギ国際基督教大学准教授による論考をお送りする。
意見の二極化が
政策決定に悪影響を及ぼす
平和主義か、軍国主義か。
アベノミクスは機能しているのか、間違っているのか。
歴史修正主義か、歴史的真実か。
謝罪するか、謝罪しないか。
移民を受け入れるのか、受け入れないのか。
こうした二極化された見解は、今日、日本のマスメディアの多くで表明されている。伝統的な学会においてさえ、今では意見交換の際にかなり政治信条が露わにされる。かつては多様な視点を持つ識者たちがいたものだったが、今では日本が直面するトピックに対する知的な議論というよりは、承認と激励のためのワークショップと講演を行う識者ばかりが目につく。研究というより、まるで支援活動を見ているようだ。いったい何が、よりニュートラルな見方をする穏健派に起きたのだろうか? コンセンサスを構築する場はどこへ行ってしまったのだろうか? どこに日本の中道(平均)的な声はあるのだろうか?
本稿では、日本の新安保法制、アベノミクス、最近の難民や移民に関する議論を見ることで、こうした見解の二極化について議論する。筆者はどちらかの立場に立つことを目的としない。代わりに、中道的なものの見方とコンセンサス作りの不在の結果として、社会の二極化と、これら重要な議論に対する間違った教育(知識)が登場してきている点を指摘したいと思う。中道的な見方の欠如は、政策決定プロセスを損ない、また私たちがそれを評価する能力をも、微妙な方法で傷つけている。
安保法制で対立する
「絶対主義者」たち
まず非常に異論の多い安保法制に関連する最近の議論から始めよう。法案通過後、何週間も何日も、私たちは安倍首相をファシストと呼ぶ反対派が、カラフルなプラカードを掲げてデモをするのを見てきた。「平和にチャンスを与える」「戦争にノーと言う」「軍国主義に反対する母たち」といった、重要だが、組織化されていないメッセージの数々に、私はジョン・レノンの「イマジン」を思い起こした。平和主義者的姿勢への絶対主義者的なアプローチで、デモ参加者たちは、まるで反対運動の代表者であるかのように大げさに喧伝していた(参考記事)。