「舛添祭り」から我々は何を学んだのか。知事と思えないセコさ、政権与党の無責任、水に落ちた犬なら叩ける人たち…。
政治家やメディアを嘲笑しても、何も変わらない。ここに描かれたのは、日本の自画像である。
有権者は客席から芝居を見ている。関心は次の都知事選に誰が出てくるか。代表を送り出そうという「当事者」ではなく、品定めする「傍観者」の態度だ。
眼を海外に向ければ、政治は激動期に入った。米国ではトランプやサンダースが現れ「権威者の統治」への反乱が起きている。欧州は植民地支配の古傷が疼き、統合が揺らぐ。アジアでは、香港の若者が民主化に立ち上がり、台湾も学生が決起し政治に躍り出た。韓国では若者が政治のイニシアティブを握り、リベラルなソウル市長を支える。
若者が前面に立つ「異議申し立て」が世界の潮流になっている。日本だけが無縁ではありえないだろう。時差や現れ方に違いがあっても、躍動は伝播する。政治後進国ニッポンの有権者も、無残な政治を眼前に見せられ、黙っているだろうか。
傍観者を当事者に変えるのも政治だ。都知事選挙も参議院選挙も世界史の中にある。
怒れる若者たちが政治を変える
多数が無関心でも先端部分は時代を映す
日本で変化を実感させる現場が二つある。沖縄と国会前だ。
19日、米兵による女性殺人事件に抗議する県民大会が那覇で開かれた。主催者発表で6万5000人。オール沖縄を目指す集会だが自民党・公明党は参加しなかった。大会は「海兵隊撤去」を掲げた。
沖縄と香港・台湾には共通点がある。香港で行政長官の選任に抵抗した雨傘運動の若者は人権を抑圧する中国を許せなかった。台湾で国会を占拠したヒマワリ運動の学生たちもまた、人権が尊重されない大陸に呑みこまれることを拒否した。
沖縄には米軍という「抑圧者」が目の前にいる。日米地位協定という治外法権で沖縄住民の人権は軽い。基地への経済的依存が薄れるにつれ、抑圧からの解放を求める声が高まった。保守政治の中核にいた翁長雄志氏が知事となって「反基地」で合流したのも大きなうねりの産物である。