マツダ代表取締役社長兼CEO 小飼雅道
【第1回】 2017年1月10日 小飼雅道 [マツダ代表取締役社長兼CEO]

マツダが「他社と違うことをやる」のは、むしろ技術開発に愚直だから

Photo by Akinori Shimono

マツダ車でないとダメなんだというお客さまがいる

 マツダという自動車メーカーに、どんなイメージを持っているだろうか。

 広島で生まれ、今も広島に本社を構える地方企業だ。90年代に、いわゆる経営危機にも陥ったことを覚えている読者も多いだろう。米フォード・モーターの傘下で、大リストラも経験した。リーマンショックで再び業績は悪化したが、2015年度は売上高は3兆4066億円、営業利益2268億円という状況に落ち着いている。といっても、トヨタ自動車の売上高28兆4030億円とは比べるべくもないし、年間販売台数は153万台(15年度)と、トヨタの868万台に遠く及ばない。

 それでも、数ある自動車メーカーの中でも、マツダ車でなければダメなんだとおっしゃるお客さまがいる。我々自身もクルマが好きで、クルマづくりに誰よりも情熱を傾けているという自負があるだけに、そんなお客さまがいることが誇りでもある。

 子どもの頃、我が家にはクルマはなかった。初めてクルマの素晴らしさを知ったのは、大学に入ってからである。

 長野県の松本深志高校から東北大学に進むと、友人たちは皆、クルマを持っていた。ケンとメリーのスカイライン、トヨペット・コロナ、カローラ、ミニカ……。彼らの愛車の助手席に乗せてもらって学校に行ったり、実家に帰省したり。クルマって何と楽しいものなのかと心から思い、もちろん免許もすぐに取った。

 父親が電電公社の技術者だったこともあり、ものづくりには小さい頃から興味があった。大学は工学部だったし、ごく自然に自動車メーカーで働くことに憧れるようになった。自分の作ったモノが、街で実際に走っているのを見られるのである。それは技術者冥利に尽きる。

 大学のあった仙台から広島の東洋工業(現マツダ)は大変遠いのだが、当時の東洋工業は、国内で唯一、世界でも極めて珍しいロータリーエンジンを開発・量産する会社だった。ロータリーエンジンというのは、一般的なピストンエンジンとは全く異なる構造をしており、軽量・コンパクトに配置できて、振動や騒音が少なく、それでいてパワーがあることが特徴だった。技術的に優れた会社というイメージを持っていたし、何より当時、「コスモAP」というラグジュアリースポーツ車があって、実にカッコよかったのだ。

 仙台から広島まで入社試験を受けに来た私に、人事担当者は当然、「なぜ当社を選んだのか」と尋ねたが、「とにかくこの会社以外にないと思って来ました。素晴らしい会社だと思っています!」と答えた。紛れもない本心からだった。

 首尾よく採用され、入社したのは1977年。オイルショックの直後である。ロータリーエンジンはメリットは多いものの、燃費が悪いというイメージが付きまとい、オイルショック以降、マツダの業績は非常に悪かった。そのため75~76年は新卒採用を控えていたほどだった。

 幸い77年から採用が再開され、同期入社は40人くらいいたが、苦しい状況というのは変わらなかったのだと思う。生産現場から国内営業に配置転換や出向が行われたり、社内には悲壮感が漂っていた。もっとも、新入社員の私は、あまり深刻には考えず能天気だった。マツダで働けることが嬉しくて仕方がなかったのだ。

 入社してすぐに、「ルーチェ」の中古車を買った。若者向けのクルマではないが、もちろんロータリーエンジンだ。憧れのコスモは当時、中古はほとんど出回っていなくて、かといって新車は185万円もしてとても手が出なかった。同期で無理をして買った者もいて、私も「いつかは…」と思っていたが、そのうち生産中止になってしまった。欲しいと思ったクルマは、その日、その時に買わないとダメだ。

ものづくりの最初から最後までを経験した生産技術部門

 さて、配属は自ら生産技術部門を希望した。普通、自動車会社に技術職として採用された者は、まず例外なく開発部門を希望する。だから、生産技術をやりたいと申し出たら、人事担当者は「え?」と驚き、その場で「OK」が出た。

 開発を希望した者は誰一人、その場で決まるということはなかった。人事はきちんと時間をかけて適性を見極め、適材適所で配置する。もちろん、開発を希望しても、行けない者も多い。私のように即決するケースは極めて珍しいが、そのくらい生産技術を志望する新人というのも稀有だったのだろう。

 だが、私としては明確な動機があった。もともと、自動車メーカーを志望した理由が、「自分の作ったものをすぐ市場で見ることができる」ところにあった。だから、実物にするという最終工程こそが、私には圧倒的な興味のポイントであるわけだ。開発というのは聞こえは良いが、私にとっては魅力に欠けたのである。

 もっとも、生産技術とは何をする部門なのか、想像がつかない読者の方もいるだろう。主に業務は2つある。

 まず、新型車の量産に先立ち、工場を用意する仕事だ。新型車の設計図を元に、金型を製作したり、組み立て用の治具を製作するなど設備投資を行い、生産体制を整えるのである。もう1つが、既存の工場に対し、老朽化した部分の改修や、作業効率を上げるための改善などを施していく仕事だ。

 私はまず、後者の仕事に就いた。トラックの製造工場の改善を実施するチームである。タイタン、ボンゴ、プロシード、ファミリアトラック、ポーターキャブという5車種のトラックを月に2万台生産する、非常に大きな生産能力を持つ主力工場を担当し、作業効率化のためにレイアウトを変えたり、重労働を補助する装置を導入して労働環境を改善するなどの仕事を、10年やった。

 私にとっては、この10年がその後の会社人生に役に立ったと思う。毎日、工場内を回って、作業している人から直接、「この設備がよく故障するんだ」とか「あそこが危ないから改善してくれないかな」といった声を聞き、全体のバランスを考えながら自分でその解決策を考える。設備投資計画を立案し、採算性を追求して計画書にまとめあげ、上司の承認と工場の現場の理解を得る。

 その後、実際に設備を設計する部門や取引業者などと共に工事を安全に遂行する。工場の生産ラインを止めてしまっては意味がないから、綿密なスケジュール管理と調整能力が必要となる。

 仮に開発部門に入っていたら、エンジン、シャーシなどの専門に分かれ、大きな分業体制の一部しか経験できなかっただろう。最初の10年で、ものづくりの最初から最後までを経験できる部門に就けたのは幸運だった。

拡大志向に走ったバブル時代の反省

 ところで先に書いた通り、そもそも私がマツダに魅力を感じたのは、ロータリーエンジンのような他社がやらない技術に果敢に挑戦する姿勢と、技術力にあった。実際、困難な道だろうと、とにかくできるまで立ち向かうという精神と技術力が宿っている会社だと、入社以降も感じることが多かった。それは、今でもマツダのアイデンティティであり、ブランドイメージになっていると思う。

 しかし、そうしたアイデンティティが希薄になってしまった時期がある。1980年台後半のバブル期、大手メーカーに追随し、拡大志向に走ってしまったのである。

 もっとも軽トラックから高級セダンまでのフルラインナップを取り揃えた総合メーカーとして、次のステップに進むには大手メーカーがライバルになるわけで、当時としては適切な判断だったとは思う。その点では単にバブル景気に踊ってしまったわけではない。ただ、結果的にバブルは崩壊したし、お客さまに受け入れてもらえなかったのは事実だ。

 当時、大手自動車メーカーは販売網を5系列(チャンネル)用意し、チャンネルごとに異なる車種を供給して、客層に応じた販売戦略を構築する戦略をとっていた。トヨタ自動車はトヨタ店、トヨペット店、カローラ店、オート店、ビスタ店の5チャンネル、日産自動車は日産系、モーター系、プリンス系、サニー系、チェリー系といった具合だ。

 マツダもそれらに倣い、1989年以降にマツダ、アンフィニ、ユーノス、オートザム、オートラマの5チャンネル体制を敷いた。課題だった国内販売の強化を狙った施策だったが、ブランドイメージは散逸し、車種ラインアップの拡大は経営効率を悪化させるだけだった。そして、バブル崩壊後の不況の中、マツダの業績は低迷していく。

 マツダは1979年以来、米フォード・モーターと資本・業務提携していたが、93年から95年にかけて3期連続となる大幅赤字を計上したのを機に、96年にフォードの支援を受けることになった。フォードは出資比率を33.4%に引き上げて経営権を掌握、本社から派遣された4人の米国人社長の下で、さまざまな改革が進められたのである。

 5チャンネル30車種以上にまで広がったカーラインナップは、現在、大きく分けて「デミオ」「アクセラ」「アテンザ」「CX-3」「CX-5」「CX-9」「ロードスター」の7車種にまで絞っている。ディーラーには「これだけのモデルで、とにかく勝負してください」とお願いしている。こうした改革の経緯と内容については次回以降に譲ろう。

プロジェクトチームという手法は成功しない

 私にとって残念だったのは、会社が大変だったこの時期に、現場を離れていたことだ。

 前述した工場での生産技術担当を10年務め、その間に海外工場のレイアウト設計なども経験しながら、次に携わったのは少人数のプロジェクトチームだった。「次世代のクルマと、その生産技術はどうあるべきか」といったテーマを、社内の各部門から集められた数人で考えていくのである。いわゆるライン業務から外れてのプロジェクトだった。

 次世代生産技術の開発については横浜技術開発研究所で7、8人のチーム、次世代の車両開発については広島本社で10人程度のプロジェクトだった。1987年から94年くらいまで、まさに日本経済がバブルの絶頂と衰退を経験しているあいだ、現場の仕事をしていなかったことは、今でも残念に思っている。

 もちろん、プロジェクトには真剣に取り組んだ。生産技術に関して我々が与えられたテーマは、21世紀には労働人口の不足が発生するため、人間の工数を削減するべく、いわゆる自動化技術を開発しなければならないということだった。

 一方、次世代のクルマについてのテーマは、軽量化とモジュール化という概念が中心になった。モジュール化というのは一体成形のことである。鉄板をプレスして、各所を溶接して、何百もの部品を組み合わせていくところを、樹脂で一体成形をする。そうすると部品点数が大幅に減り、コスト低減につながるというわけだ。

 だが今思うと、例えばモジュール化であれば、それ自体が目的になっていた。極端にいえば、結果的にコスト高になってしまっても、モジュール化さえ達成されれば良しということになる。しかも、本来のお客さまニーズというのは、クルマの運動性能が高まること、燃費が良くなること、衝突性能、安全性能が高まってドライバーが心地よく運転できるといったところのはずなのに、そうした本来の目的とは別のところで、個別最適に陥ってしまったのである。大きな反省点だ。

 また、プロジェクトチームという形式自体に問題があったとも思う。社内の主要部門から集まってきているとはいえ、その場にいる数名の知見だけでは、できる範囲など限られている。しかも目的がそもそも限定されているのだ。組織力を発揮できるはずがない。

 当時のこの経験があるため、私には「数名のプロジェクト活動はうまくいかない」という信念がある。やるなら全社で、全部門のリソースをしっかり投入し、トータルでベストなお客様目線の商品というものに向かっていかないとダメだと考えている。

 そもそも当社はクルマしか作ってない。クルマ以外のことをしている者は一人もいないのだ。どんなクルマを、どう作るかという本質的なテーマについては、全社全員で取り組まないと成功しない。

ボーリングの「1番ピン」になる技術

 2007年に構想を公表し、全社で取り組んだ「モノ造り革新」には、まさにその思想が盛り込まれている。

 商品競争力を高める「多様性」と量産効率を高める「共通性」は、従来トレードオフの関係にあるとされていて、多品種・少量か、少品種・多量か、どちらの方針を採るかはメーカーとしての生き方を左右するものだった。

 しかし、マツダはあえて、「多様性」と「共通性」の2つを高次元で両立させることを選んだ。それが「モノ造り革新」の狙いである。

 例えば、当社が独自に開発したスカイアクティブというエンジンの燃焼技術。これは、全車種に適用しているものだ。ヘッドランプも内部構造が三分割になっているのだが、全車種で採用している。 i-ACTIVSENSEと呼ぶミリ波レーダーやカメラを使った安全システムも、車種ごとに変えるなんてことはしない。そうしないと効率的にならないからだ。

 こうした考え方を当社では「コモンアーキテクチャー」と称している。エンジンもプラットフォームも、基本的なストラクチャーは共通にして、クルマのサイズに応じて変えていく。つまり、車種・車格を問わず共通化・固定化する部分と、車種ごとに変える部分をはっきり分け、開発期間の短縮や、生産工程の効率化、設備投資の低減などを図るのである。

 全車に水平展開するのだから、共通部分の技術は本質的なものでなければならない。本質的な技術というのは、いわばボーリングの「1番ピン」のようなものだ。

 例えばクリーンディーゼルエンジンでは、圧縮比を下げたことだ。スカイアクティブエンジンは高効率燃焼が特徴であり、排気をきれいにする触媒装置もいらなくなる。エンジンのシリンダーブロックの容量を小さくし、シリンダーヘッドの肉厚を薄くした。さらに鉄からアルミにすることで、結果的にエンジンは軽くなり、車体全体が軽くなり、さらに燃費も下がる……といった具合に、一番大事なところのピンを倒しさえすれば、すべてのピンが倒れていく。そんなクルマ全体にメリットをもたらす普遍的な技術として展開できるのである。

 マツダは他社と違うことをやる会社だというイメージ、それは必ずしも間違いではないが、決して奇をてらったことをやる会社というわけではないし、あえて周りと逆のことをやるという姿勢とも違う。

 冒頭に述べたような、困難なことでもとにかく喜んでやるという気風と、この技術は将来きっとお客さんが喜んでくれるし、お客さんが求めてくれるはずだとなれば、信じて突き進むパイオニア精神があるのだと思う。むしろ、最もオーソドックスな技術開発の考え方を持っている愚直な会社だと、私は思っている。

 次回は、こうした「モノ造り革新」の現場における具体的な展開例と、フォードの下で一番苦しかった時期をどう乗り越えたのか、より詳細に記したいと思う。

(マツダ代表取締役社長兼CEO 小飼雅道)