週刊ダイヤモンドで読む 逆引き日本経済史
【第42回】 2012年1月13日 坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

高橋是清のインフレ政策で昭和恐慌から脱出(1931-32年)

大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。

 高橋是清(1854-1936)は2度、窮地の日本経済を救った。前回に続き、2度目、昭和恐慌の物語である。

1920年代半ば、金本位制に復帰するも
恐慌によって各国が再離脱

 デフレ恐慌で混乱する中、若槻礼次郎民政党政権が崩壊し、犬養毅政友会政権が成立したのが1931年12月13日だった。5回目の大蔵大臣に就任した高橋是清は、その日のうちに金輸出再禁止を決めた。つまり、再び金本位制から離脱したのである。

 1920年代半ばから各国は金本位制に復帰し、1930年の恐慌によって再び金本位制から離脱していった。高橋是清はこの流れに沿って決断したといえよう。

 金本位制は第1次大戦(1914-18)で崩壊し、1920年代に入ると各国は順次復帰していった。イギリスは1925年4月、離脱以前の旧平価(ポンド高)で金解禁(金本位制復帰)すると発表した。英国議会の予算演説で発表したのは当時の大蔵大臣、ウィンストン・チャーチル(のちの首相、1874-1965)である。

 これに対し、1919年に大蔵省を辞めてケンブリッジ大学にもどり、パンフレットや論文を書いていた経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)が批判した。

 「ポンドの外国為替価値を、それが戦前の金換算価値を10パーセント下回っている点から戦前水準まで引き上げるという政策は、」「晩かれ早かれ、各人の賃金を1ポンドについて2シリングずつ切り下げる政策」である。「デフレーションは一度少しでも動き出せば、その進展が加速度的となる。もし実業界全般に悲観論が広まるならば、その結果、貨幣流通の速度が鈍らされ、別にイングランド銀行が公定歩合の引上げまたは預金減少の手を打たずとも、デフレーションを長びかせることができる。」(ケインズ「チャーチル氏の経済的帰結」1925★注①)

 最後のくだりは、もちろん皮肉である。この5年後、井上蔵相はチャーチル蔵相と同様に旧平価解禁を実行し、デフレに見舞われることになる。

 1929年10月のウォール街暴落以降、資産価格は下落を続け、ヨーロッパにも大きく波及し、とく第1次大戦の敗戦で巨額の賠償金を課せられていたドイツの打撃は大きかった。

 第一次大戦後、復興途上の敗戦国ドイツへイギリスからの投資が進んでいたが、1930年恐慌でイギリスの金流出が激化した。9月には危機的な流出額となった。1日1000万ポンドを超えたのである。イギリスはついに1930年9月20日、金本位制からの再離脱を発表した。

高橋是清の就任で株式市場は暴騰
“ケインズ政策”によって昭和恐慌収束へ

 日本への影響は、1930年は比較的緩やかだった。井上蔵相は「日本への影響いかんといえば、表面的に考えるほどたいしたことはないと思う」と何度も語っている(『井上準之助論叢』★注②)。

 前回詳述したように、1931年はマイナス成長となり、野党政友会の攻撃も激しく、閣内不一致によって総辞職したのが年末の12月13日だったというわけだ。

 じつは、民政党内閣総辞職、そして井上蔵相辞任のニュースが伝わり、高橋是清が後任に就任するといわれた12月12日、株式市場も商品市場も暴騰している。

 高橋新蔵相が一転して財政緊縮から支出増、金融緩和へ舵を切ることは誰の目にも明らかであり、マネーが市中にあふれることを市場が予測し、相場は急騰したのである。買いが殺到して収拾がつかなかったため、3日間、市場取引が停止された。

 12月13日、組閣の日に高橋蔵相は金本位制からの再離脱を発表し、金との交換も停止した。そして公共事業支出(軍需産業向け)を増額する財政拡張政策をとって昭和恐慌を収束させた。市中の消化状況を見ながら公債を日本銀行に引き受けさせる量的緩和、すなわちインフレ政策も導入した。

 高橋財政はケインズ以前のケインズ政策だといえよう、これを後世の研究者は大いに評価している。

井上準之助の政策は現代のIMFそのもの
「財界大整理」をねらってデフレ政策を導入

 一方、井上準之助の緊縮財政、高金利、産業リストラ政策は恐慌を激化させる結果となったが、これはケインズ政策に対する新古典派のIMF政策のようなものだ。

 当時の「ダイヤモンド」は誌面で旗幟鮮明にせず、比較的客観報道に徹していたように思えるが、前回紹介したように井上準之助の主張を2号にわたって掲載していたように、やや井上寄りだったかもしれない。

 というのは、1923年に「ダイヤモンド」編集局へ入社し、のちに主筆をつとめていた安田輿四郎が自著で大要、次のようなことを書いているからだ。

 「新平価(円安)でインフレを起こしてから恐慌を起こさせるのがいいか、旧平価(円高)解禁のままデフレを進行させ、経済を縮小して恐慌にいたるのがいいか、いまや二つに一つしかない。私は後者を選ぶ。旧平価を切り下げてもあまり意味はない。それほどの差ではないからだ。金本位制に復帰すれば同じことだ。」(筆者による要約・安田輿四郎『金解禁前後の財界』ダイヤモンド社、1929)

 平価水準のいかんを問わず、金本位制に復帰すれば国際経済危機の影響は免れないという意味である。

 井上準之助が大リストラを行ない、財政を緊縮してスリムにしたからこそ、高橋是清のインフレ政策の効果もまた大きくなった、という見方もできる。井上財政はIMF処方箋の考え方に近い。1997年のアジア通貨危機で、IMF政策を受け入れた韓国、タイなどは、翌年には急回復している。

 井上準之助は1929年7月29日に緊縮財政案を発表し、11月21日に金輸出解禁の大蔵省令を交付、翌1930年1月11日に旧平価で金本位制復帰に踏み切った。今も昔も経済学の知見からすれば、不況期にあえて円高水準を選び、緊縮財政にしたのだから大不況になってしまう。

 井上もそれは承知していた節はある。「財界大整理」をねらってデフレ政策を導入したのだ。要するに、傷んだ会社、金融機関は整理して新しい成長を図るという考え方で、日本経済全体のリストラを目標にしたわけだ。まったく現在のIMFそのものである。

 旧平価解禁後、1930年(暦年)の経済成長率は名目で▲9.9%、実質で1.1%と、2桁に近い大デフレとなってしまった。5年前に旧平価金解禁で不況に陥った英国は、1931年9月21日に金輸出再禁止(金本位制再離脱)に踏み切ったことは前に述べた。日英で同時期に対照的な動きとなっている。

昭和恐慌まっただなかに来日!
シュンペーターは経済政策をどう評価したか

 以下は、DOLで連載した「シュンペーターの冒険」第62回で詳しく書いたことだが、ケインズのライバル(面識はなかったが同年齢)、ボン大学教授ヨゼフ・シュンペーターがちょうど1931年初頭に来日し、昭和恐慌のまっただなか、各地で講演していたのである。最後にシュンペーターの見方をもう一度紹介しておきたい。

 シュンペーターは東京と関西で何度か講演している。以下は1931年1月29日午後、日本経済連盟会と日本工業倶楽部の共催による講演会の記録である。テーマは「世界不況:とくにアメリカ合衆国に言及しつつ」(★注③)。筆者がポイントを簡略にまとめた。シュンペーター来日のすべての記録は同連載を参照していただきたい。

シュンペーター講演「世界不況:とくにアメリカ合衆国に言及しつつ」
(1931年1月29日 日本工業倶楽部)のポイント

・好況と不況の時期は繰り返し現れ、それを我々は「循環」とよぶ。産業の成長は生産方法ならびに販売の手法、さらには新製品の導入によって達成される。これらは撹乱を生み出し、その撹乱が十分に吸収されて、経済状態が正常に戻るには相当な時間がかかる。この調整時間を我々は不況と呼ぶ。(★筆者注:『経済発展の理論』で展開した「企業者のイノベーションと景気循環」の論理である。)

・第一次大戦前の平価(旧平価)による金本位制の再建という貨幣改革は、ビジネス界の苦境をさらに悪化させる。(★筆者:ケインズと同じ意見。)

・1925年のイギリスの再建金本位制法(旧平価解禁)は、目下英国が苦しんでいる不況を招いた。(★筆者注:英国の金輸出再禁止はこの講演の8か月後、1931年9月である)

・私は英国や日本の政策(旧平価解禁)を批判するつもりはない。その政策の利点が何であれ、その帰結は高くつくと言いたいだけだ。

・急進的な財政緊縮策(累進度の高い課税制度などを含む)は、貯蓄と準備金を切り詰めさせることになり、金融メカニズムが正常な機能を果たせなくなる。好況は遠のく。

・結論……完全な回復には時間がかかるものの、1931年にはかなりの回復が見られると予想する。

 デフレが激化してから1年後の発言である。「日英両国の政策批判をするつもりはない」と言いながら、痛烈に批判している。

 高橋是清は積極財政策に転換し(1931年12月)、金輸出再禁止を決定して即座に金本位制から離脱した。1931年の成長率は名目で▲9.3%、実質で0.4%だったが、金輸出再禁止後、高橋財政下、1932年の成長率は名目で2.6%、実質4.4%と劇的に回復することになる(★注④)。

 シュンペーターの予想は、日本に関しては1年遅れたがほぼ当たった。

 井上準之助が大リストラを行ない、その帰結として大不況となった。絞りに絞ったところへ高橋是清が財政拡張政策と金融の量的緩和を行ない、一気に回復したことになる。

 ケインズの主張もシュンペーターの分析も正しかった。

 では、どうして日本は、井上準之助が大リストラを図らなければならない事態に陥っていたのか、次回は高橋是清が日本の危機を救った1度目、昭和2(1927)年の金融恐慌へ逆引きする。

★注①J.M.ケインズ「チャーチル氏の経済的帰結」(『説得評論集』所収、救仁郷繁訳、ぺりかん社、1969、原著1925)

★注②井上準之助『井上準之助論叢』(井上準之助論叢編纂会、1935)

★注③中路敬訳「J.A.シュンペーター講演録『世界不況――特にアメリカ合衆国に言及しつつ』」(「高崎経済大学論集」第49巻第2号所収、2006) なお、この講演録は「日本工業倶楽部会報」(第16号 1931年5月25日)にも文語調で掲載されているが、本稿では新しい翻訳を参照した。

★注④井上準之助は高橋是清と貴族院で論戦した翌月(1932年2月9日)、民政党幹事長として選挙活動中、右翼団体血盟団によって暗殺された。