地元の名門大学を卒業して来日。その後、日本の大学院で修士号を取得し、中国語・日本語・韓国語の3ヵ国語を自在に操るチェ・ホア。日本で生まれ育っていたならばエリートコースをたどっても不思議でない彼女は、「中国エステ」の経営者として生きることを選んだ。
社会学者・開沼博は、チェ・ホアの言葉に耳を傾ける。大学院を卒業したものの、就職にも事業にも失敗した彼女は、その後「中国エステ」のママとして歩み出す。しかし、警察による取り締まり、“できちゃった結婚”と離婚、そして、ビザ取得のための「結婚」……。彼女が歩んできた道のりはけっして平坦なものではなかった。「カネの奴隷」となってまでも、チェ・ホアが求め続ける「豊かで幸せな生活」とは——。
乗り越えることができない「スタートライン」の呪縛。第10回に続き、壁にもがきながら、それでも懸命に生き抜くひとりの中国人女性の姿を通して、日本の現実が見えてくる。連載は隔週火曜日更新。

80年代に変化を迎えた性風俗産業

「中国エステ」の起源には諸説ある。かつて、中国・大陸側からの留学生の流入がまだ少なかった1980年代前半、繁華街において「台湾式マッサージ」という名称で同様のサービスを提供する業態があったと語る者は多い。

 また、80年代以前にも、台湾人や華僑系在日中国人が経営するマッサージ店は存在していたが、それはあくまで通常のマッサージ店であって、戦略として「お色気」を導入した店舗ではないという声もある。その時点で「台湾式」が意味するのは、足で体を踏むマッサージや足ツボを刺激する、といった程度のことだった。

 ところが、ある時期から、一部の台湾式マッサージ店が「ミニのチャイナドレスを着た若い台湾美女がマッサージをしてくれる」という「お色気」サービスを取り入れていったのだという。この背景には、バブル期を迎える日本における都市風景の変化があった。

 80年代、不動産の価格は高騰し、企業の接待経費が街にばら撒かれる浮ついた空気が生まれる。歌舞伎町をはじめとする繁華街は、より派手で過激な演出を売り物とし始め、サービスのイノベーションを起こしていった。そして、性風俗産業においては、いわゆる「ファッションマッサージ」などが流行し、新しいムーブメントが生まれていく。その潮流が、従来とは違った「台湾式」を生み出す土壌となったことは確かだろう。

前出のAは語る。

「オレがリアルに覚えている範囲で言えば、80年代後半、大学生のときに歌舞伎町の靖国通り沿いに店舗を構えていた『C』が最初のほうかな。料金とかは忘れたけど、キャッチに連れられて店に入って、チャイナドレスを着た女のコが単純にマッサージをするだけ。それ以上のサービスはなかったけど、股間周辺を念入りにマッサージしてくれたり、いわゆる普通のマッサージとは違うもの、っていう気がした」