安倍晋三首相が敬愛する祖父・岸信介。まるで運命のめぐり合わせか、安倍内閣あによる安保法案の強行採決とそれに反対するデモの動きは、1960年の岸内閣での新安保条約の調印とその後起こった安保闘争と酷似する。今、学び直したい1960年の安保闘争の経緯と結末、そしてこの国の安全保障のあり方とは?

まるで今と同じ!?<br />今こそ知っておきたい<br />1960年の安保闘争とデモの結末

対等な日米関係を求めて――岸信介の安保条約改定

 1951年に締結した日米安全保障条約は、第2回で見たように、いわば日本が経済復興のかわりに「アメリカの属国」となることを認めた条約であり、その後の日本の自治・外交の運命を決定づけた。

 しかし、これはあまりにも「片務的」だった。片務的とは「片方だけが義務を負うこと」であり、この旧安保に従えば、日本は米軍に基地を貸さねばならないが、アメリカには日本防衛の義務がないことになる。

「これではあまりに不平等だ!こんな一方的な基地を貸すだけの契約ではなく、もっと双務的で対等な条約にしたい」。そう強く望んだ一人の男がいた。岸信介である。

まるで今と同じ!?<br />今こそ知っておきたい<br />1960年の安保闘争とデモの結末岸信介

 岸は「自主独立」と「親米」の両面を重視した政治家だった。戦前から重要閣僚として東條内閣で活躍しており、戦後はA級戦犯として3年半拘留されたが、GSの弱体化路線を嫌ったG2のウィロビーの釈放要求を受け釈放された。その後、鳩山と同じく、サンフランシスコ講和条約後に復帰し、鳩山内閣(1954~56年)、石橋湛山内閣(1956~57年)に続いて首相になった。

 ちなみに、岸の前任にあたる石橋湛山についても少し触れておくと、石橋は、鳩山内閣で中ソとの国交回復を強く進言した政治家だった。アメリカは「中国やソ連と組むんじゃないぞ」と警告してきたが、日本が対米追従から脱却するには、東側との国交回復も必要であると、彼は考えたのだ。

 そして石橋は、鳩山退陣後の自民党総裁選で「岸優勢」の下馬評を覆して僅差で勝利し、第55代内閣総理大臣に指名された。しかしその直後、脳梗塞で倒れ、結局石橋は政策の実行どころか国会での所信表明演説も答弁もないまま退陣した。首相在任わずか65日、後継には総裁選を闘った岸信介を指名した。岸は首相就任後、日米安保条約の改定に力を注ぐことになる。

 岸がめざしたものは、アメリカとの「対等性」。彼のスタンスは基本的には鳩山同様「自主独立」だが、同時に吉田的な「親米路線」も求めたのだ。ただし親米路線とはいっても、吉田型とは違った。

 対米追従を決め込んでアメリカのお気に入りになり、言うことをホイホイ聞くかわりにガッツリ保護を受ける――そんな吉田茂のやり方は確かに現実的な路線だが、岸はそんな「スネ夫がうまく立ち回るような日本」の姿は好まなかった。

 彼がめざしたのは「自主独立の実現した、対等な日米関係」だ。別にジャイアンのお気に入りにならなくてもいい。一個の独立国家としてアメリカと対等につき合い、はっきり自分の意見の言える国にしたい。岸はそう考え、公職追放後の政界復帰の際、実現こそしなかったが、なんと自発的に右派社会党に入ろうとした。

 つまり彼の眼には、吉田茂よりも右派社会党のほうが、アメリカに対してよほど対等な立場を貫いている政党と映ったということだ。そのくらい岸にとっては、アメリカからの“真の独立”は悲願だった。

 岸は就任早々訪米してダレス国務長官と会い、一方的な日米関係をできる限り対等な関係に改めるよう働きかけた。その努力が実り、1957年、岸はドワイト・D・アイゼンハワー米大統領と「日米関係が“共通の利益”と信頼に基礎を置く新しい時代に入りつつあることを確信する」という共同声明を発表した。

 実は当初は、この日本からの要求を、アメリカはあまり相手にしていなかった。「日本のくせに俺様と対等な条約なんて10年早いわ!」ぐらいの意識があったはずだ。

 でも当時、冷戦が激化するなかで、人工衛星やミサイル開発などの宇宙開発競争に出遅れて焦っていたアメリカは、極東地域での対立先鋭化に備え、もっと日本を“対ソ連の最前線基地”として積極的に活用する道を考え始めた。

 このようなアメリカ側のニーズの変化もあって、1960年に岸は渡米し、ほぼ望むような形に改定された「日米新安保条約」についに調印することができたのだ。

 新安保条約の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。やっと条約名に、念願の“相互協力”が入った。これで今後は、一方的な基地貸与条約ではなく「日本がやられたときは米が助け、日本国内の米施設がやられたときは日本が助ける」「双方への軍備増強義務」「相互の経済協力」など、相互協力のニュアンスが強くなった。

 しかし、ここからが難題だ。条約は内閣が締結した後、国会での承認が必要となる。新安保条約はすでに1957年の日米共同声明以降、国内でかなり反対運動が盛り上がっていた。属国扱いよりマシになりはしたものの、かわりに軍事同盟色が濃くなりそうだったからだ。

 人々の記憶には、まだ先の大戦が生々しく残っている。もう二度とあんな経験はしたくない。しかも岸は、東條内閣の閣僚で日本の宣戦布告文書にも名を連ねる“元A級戦犯容疑者”だ。ひょっとしたら日本は、再び軍国主義化するのかもしれない――。

 人々は1959年に結成された「安保改定阻止国民会議」の統一行動の下に集い、国会審議が始まる前から、「安保改定阻止」は学生から主婦まで参加する大衆運動に発展しつつあった。