「トップ・マネジメントの教科書」CEOとCFO その新しい関係
2016年4月11日 

聖域を廃して総合力を追求
宮永改革の挑戦

宮永俊一・三菱重工業 社長/CEO

三菱重工業が大改革に乗り出している。戦後の財閥解体で3つに分割された同社は、1964年に再び1社に統合されたが、その後も全国の事業所は多くの権限や独自の文化を保持し続けた。だが2008年に大宮英明社長が就任後、次々と改革を断行。これを支えた宮永俊一氏が社長就任後、改革路線はさらに猛烈に加速した。かつては、まるで進化が止まった恐竜のごとく低迷した三菱重工を、いかにして変えたのか。そして同社は今後、どこを目指しているのか。宮永社長が語り尽くした。(聞き手/DIAMOND MANAGEMENT FORUM編集室 松本裕樹)

究極のモノづくりは
アートであり事業ではない

――日立製作所との火力発電事業の合弁会社設立、独シーメンスとの製鉄機械事業の合弁会社設立、さらには仏重電大手であるアルストムのエネルギー事業をめぐる米GEとの争奪戦など、三菱重工が大きく変わり始めています。従来、自前主義でさまざまな事業を拡大した結果、「機械のデパート」とまでいわれた御社が、この数年、事業の分離や買収に積極的に乗り出している。なぜいま、これほど大きく方針を転換したのでしょうか。

宮永(以下略):企業が長年かけて培ってきたことを、ある時期に意図して変えようとしても、個人の力ではなかなかできるものではありません。まして、当社のように規模が大きく、非常に長い歴史がある会社の場合は、過去に成功体験があるわけですから、なおさらです。

宮永俊一
三菱重工業 社長/CEO
1948年福岡県生まれ。1972年東京大学法学部卒業後、三菱重工業入社。約17年間の広島製作所勤務の後、1999年に機械事業本部重機械部長に就任。2000年、日立製作所との合弁会社である三菱日立製鉄機械の設立に伴い社長就任。成長戦略に目処をつけた。その後、2006年に本社へ戻り、2008年4月に機械・鉄構事業本部長。2011年に副社長兼社長室長となり、大宮英明社長(当時)の右腕として構造改革を行う。2013年に社長就任。約40年ぶりの事務系出身の社長となった。2014年にチーフオフィサー制度導入に伴い、CEOを兼務。

 経営の方針が大きく変わったのは、経営陣が意図して変えたからというよりも、むしろ変わらざるをえない必然性が生まれたからというのが正しいのだろうと思います。

――必然性とはどういうことですか。

 第二次世界大戦後の復興から高度経済成長期にかけて、当社は大きく成長しました。日本経済の発展の基礎となる電力施設などの社会インフラ、石油コンビナート、造船など、重工業のさまざまな分野で非常にポテンシャルを発揮し、一時期までは安定成長が続きました。

 しかし、その後、日本の産業構造は従来の「重厚長大型」から、自動車や電化製品などの「軽薄短小型」へと変化しました。こうした中、当社はなかなか適合できませんでした。

 一方、海外に活路を見出そうにも、当社のような重厚長大型の産業は、自動車や家電製品などと異なり参入障壁が非常に高いため、欧米市場には容易に入れませんでした。また、新興国の市場規模もそれほど大きくはありませんでした。

 こうした中で、「このままではいけない」という危機感のマグマがたまってきた。私の2代前の社長である佃和夫さん(現相談役)が2003年に社長就任した頃から、会社を改革しなければならないという思いが非常に高まっていき、さらに大宮英明前社長(現会長)が引き継いだのです。

 しかし、佃社長の時代は経営的に非常に厳しい時期でした。重病人とは言わないまでも結構な病状でしたから、企業体に改革のメスを入れるだけの体力がなかったのです。

 その後、財務面などで多少は体力が回復したことから、大宮社長の時代に改革を本格化したのです。

 この時、経営陣は2つのせめぎ合いの中にいました。1つ目の選択肢は現状を受け入れるということ。大きな発展はおそらくないだろうが、しばらくは安定した経営が続くだろう。そして、長く静かに、灯が徐々に消えていくように、会社は衰退していく。そして2つ目の選択肢は、21世紀の成長モデルを模索し、新しい形の三菱重工としての発展を目指すということです。どちらを選ぶかによって、たとえばモノづくりのあり方も大きく変わってきます。

 三菱重工は「モノづくりの先端を走る会社」とか「究極のモノづくりをやっている会社」などとよく言われます。しかし「究極のモノづくり」をしているということは、裏返せば、「ほとんど誰もやらないことをやっていること」です。それでも将来の新しい産業の創出につながる挑戦であればよいのですが、我々が得意な分野をどんどん究極の姿にまで追求しているケースが多いのです。

 こうして一つのことを極めることはけっして否定されることではありません。伝統工芸、伝統技能、芸術などの世界は、古来、そうやって多くの素晴らしい作品を生み出してきました。

――しかしビジネスの世界で行うべきことではないと。

 その通りです。「究極の姿」を追求していくと、それは汎用化とは対極の伝承の世界に入ってしまいます。当社には過去に積み上げてきたいくつもの要素技術があり、おそらく今後も長きにわたり残っていくでしょう。しかし、IT産業や人工知能などの登場により、新たな成長分野がどんどん広がっていく中で、当社が保有する要素技術の重要度はかつてほど大きなシェアを占めているわけではありません。

 プライベート・カンパニーとして永続するためには、時代において何らかの重要な役割を担わなければ、その存在感は薄れていきます。「存在感が薄れていく危機感」は経営陣のみならず、多くの社員たちが多かれ少なかれ持っていたと思います。こうした危機感の高まりと、企業体力の回復が進む中、大宮前社長が社長就任した頃から、一気に変革に向けて動き始めたのです。

日立との合弁会社設立で
退路を断って社長就任

――宮永さんご自身が経営者として「存在感が薄れていく危機感」を最初に抱いたのは、おそらく2000年に日立製作所の製鉄機械事業との合弁会社である三菱日立製鉄機械(MH製鉄)の初代社長に就任された時期だろうと思います。当時は鉄鋼不況の最中。将来の見通しが立たない中で新会社が設立されました。それが、いまではグループ内の稼ぎ頭の一つにまで成長しました。いかにして事業の改革を行ったのですか。

 いまから振り返ると、MH製鉄での取り組みは当社の構造改革の実験モデルだったと思います。

 私自身、広島の工場で製鉄機械事業に長らく携わっていました。日本の鉄鋼業の発展とともに成長しましたし、その後も韓国や中国の製鉄所や、アメリカのいくつかの日系合弁会社などの需要もあり、1980年代中頃から90年代後半まで、非常に好調でした。

 ところが1998~99年頃に世界同時の鉄冷えが起こりました。当社と日立製作所の製鉄機械事業は、最盛期の受注額は両社を足して1千数百億円でしたが、一気に100億円前後にまで落ち込みました。

 こうした中で両社の製鉄機械事業を統合するという話になったのですが、もともと、両社は永遠のライバルのような意識で闘っていましたから、当然、「統合なんて絶対に嫌だ」と言う社員も多数いました。

――そういう社内の反発に対し、どう説得したのですか。

 当時、ドイツのシュレーマンという会社が世界で最もよい圧延機をつくっていましたが、それを除けば、大手といえるのは当社と日立だけでした。この両者が助け合うことで、よい核融合が起こり、ものすごいポテンシャルを発揮し、世界ナンバーワン・メーカーになれるのではないかと考え、社員たちにそのようなメッセージを伝えました。

 そのためには両社で小さな火花を散らす消耗戦をしても仕方がありません。お互いが刺激し合い、競い合って、よいものをつくる。そして、互いが感情に囚われず客観的に評価し、素晴らしいものは素直に認め合うことで、みずからを高め合い、世界一の圧延機メーカーになる。そのために、両社で助け合おうというメッセージを、社員に対して何度も伝えました。

――MH製鉄の設立後、みずから三菱重工を辞めて、合弁会社に移籍しています。それまでの慣例で言えば、本体を離れるというのは片道切符です。退路を断って籍を新会社に移したのは、社長としての決意を示すためだったのでしょうか。

 どうでしょうね。少なくとも私自身は会社を辞めたからどうだといった話は社内でいっさいしませんでした。

 私が会社を辞めた大きな理由の一つは、日立製作所から合弁会社に来た人たちに安心してもらいたかったことにあります。

 MH製鉄は出資比率も出身者数も、三菱重工のほうが日立よりも多かったのです。しかし、三菱重工だろうが日立だろうが、対等に競い合い、世界一を目指したいと本気で考えていました。それなのに、社長である私が三菱重工に籍を置いたまま、「日立さん、一緒に頑張りましょうよ」と言ったところで、誰も本気で受け止めてはくれないでしょう。

 MH製鉄の社長就任後も常に意識したのは、どうやったら社員たちをエンカレッジできるかということでした。

本社と関連会社という
ヒエラルキーを排除する

――その後、2006年に本社に戻り、まず変革の取り組みを行ったのは、かつて17年間勤務した広島製作所でした。当時、経営陣の間では、広島を改革のロール・モデルにしようという思いがあったのですか。

 当時の三菱重工は、各事業所への帰属意識が非常に強くありました。だからこそ、まずはみずからの出身地から手掛けなければなりませんでした。そうでなければ、「自分の出身地だけは守るのか」という不満の声も出かねません。

 広島製作所の改革は徹底的にやりました。製鉄機械事業のみならず、コンプレッサー・タービン事業を分社化するなど、広島製作所の社員には苦労を強いることになりました。しかし、広島製作所の社員たちが頑張ってくれたおかげで、その後、他の事業所に対しては「広島製作所でこれだけのことをやったのだから」と説得しやすくなりました。

――全社の改革に当たり、他社で参考にした事例などはあるのでしょうか。

 特定の事例を参考にしたということはありませんが、過去に当社が変革に失敗した理由はかなり研究しました。

 たとえば、オイルショック後の造船不況においては全国で5カ所あった造船所を新造船は長崎、神戸、下関の3カ所に集約して、横浜では修繕船だけにするという大改革を行いました。その後もいろいろな構造改革にトライしたのですが、大半はうまくいきませんでした。

 その大きな理由の一つは、強すぎる事業所の存在にありました。事業所はそれぞれがまるで一つの企業であり、複数の事業所が同一製品を生産したり、独自の文化を持っていました。

 事業所は各事業部から構成されており、さらに各事業部の上には事業本部があります。事業所は十数カ所あり、さらに各事業所の下に事業部が複数あるため、事業所と事業部を掛け合わせるだけでも、ものすごい数の組み合わせができます。それゆえ、意見集約をするのに大きな労力を要しました。

 事業部、事業所、事業本部という三重構造を変革するため、宮永さんは前任の大宮社長時代にさまざまな取り組みに乗り出し、そこから一気に変革が進んでいくことになります(詳しくは4月11日公開予定のインタビュー参照)。

 行うことが複雑であればあるほど、組織はなるべくシンプルにすべきだと思います。当時は約700にも上る製品を抱えており、さらに三重構造とあっては、厳しいグローバル競争を勝ち抜くことはできません。組織をシンプルにすることで、経営のスピード感を高めるだけでなく、それぞれの事業に対して誰が説明責任を果たすのかがはっきりします。

――しかし、実際に事業本部へ統合するとなると、当然、事業所からの反発もあったと思うのですけど、そこをどうやってうまく収めたのですか。

 大きな規模であったり、長い伝統があるものを変えようとしても、なかなか簡単には動きません。まずは比較的小規模で、なおかつ、最も難しい問題から解いて、変革の効果を示すことが大事です。

 2006年当時、私は機械・鉄構事業本部で副事業本部長でした。この事業は、いまでこそ当社で2番目に利益を稼ぎ出す部門に成長しましたが、当時は赤字事業でした。

 経営環境は厳しい状況が続いていましたが、何より一番の問題は、その事業に携わる社員たちが頑張ろうという気持ちになれない統治体系にあったんだと思います。そのため、各事業所にある一部の事業を分社化し、自分たちの責任で経営してもらいました。

 分社化というと「事業を潰すための布石じゃないか」とか「待遇が悪化するんじゃないか」と反対する人もいましたが、それはまったく違うということを明確に伝えました。

 いまだに三菱重工の「本体」だとか「関連会社」といった言い方をする人がいますが、これらの言い方はいずれ止めようと思っています。三菱重工のいずれの部門であろうが、グループ会社であろうが、すべて同格だと考えています。

 分社化した会社の業績が上がれば、「本体」の社員よりも多くのボーナスをもらっていいと思います。とにかく、どの社員も努力に対する正当な評価を行うべきでしょう。

――たとえば分社化した会社のトップが非常に高収益な会社をつくり上げたら、宮永さんよりも高い報酬をもらってもいいのですか。

 もちろんです。いまのところ、そこまでの会社がなかなか出てきていないのは寂しいですが、リスクに見合うリターンを得るのは欧米企業などでは当たり前ですし、日本でもそういう時代が来ると思います。

アルストム買収合戦は明治維新
もっと劇的に変化していく

――対外的に、三菱重工が変わったことを印象づけた出来事の一つが、2014年の仏重電大手アルストムのエネルギー部門をめぐるGEとの買収合戦でした。国際的な大型買収の舞台に立ったことは、ドメスティック色が強かった御社にどのような影響をもたらしたのでしょうか。

 一言で言えば、「西洋文化と初めて会った明治維新」といったところでしょうか。

 世界はものすごい勢いで変わりつつあるのに、日本はいまだに20世紀の成功体験の残影から抜け出そうとしていません。グローバルで競い合っていくためには、我々はもっとドラスティックに変わるべきだという気持ちが強くなりました。

――米GEでは各業界で1位か2位ではない事業を切り捨て、高収益企業として成長してきました。GE流の経営をどう見ていますか。

 昔のGEは非常に保守的な会社でした。アメリカを代表する大きくて強い企業で固有の問題を抱えており、その意味ではかつての当社ともよく似ています。それを(前GE会長の)ジャック・ウェルチさんが一気に事業の中身を入れ替えました。そのための手段として「世界でシェア1位か2位以外は手放す」というのは一つの公平な基準であり、当時のGEにとって最適な方法だったのでしょう。

 一方、当社は、かつては約700あった製品を約500にまで減らしましたが、それでも世界シェア1位か2位に絞り込むというのは難しいでしょう。世界シェア1~3位を目指せる事業を、合計で5つぐらい持ちたいと考えています。

――GEは祖業である家電事業部も売却することを決めました。御社の祖業である造船事業も含めて、そこも聖域なくメスを入れていく考えなのでしょうか。

 公平感という点から考えて、私は聖域というものはあってはいけないと思います。聖域を設けてしまうと、聖域にいる人に甘えが生ずるし、一方で聖域にいない人からすれば不満が高まるでしょう。そのような組織は長続きできないでしょう。

 祖業であろうとなかろうと、それなりの強さを証明できれば残すべきですし、それができないのであれば、それを聖域として残すという考えは持ってはいません。

――最後に、宮永さんの座右の書は、マルクス・アウレーリウスの『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)とのことですが、同書からどのような気付きや学びを得たのでしょうか。

 本当にいっぱいあるので、語り切れません。ちょっと本を持ってきましょう(笑)。

 (そう言って社長室に行き、下の写真にある付箋だらけの本を持って戻ってくる)

――常日頃、社長室に置いているのですか。

 いえ、常に鞄の中に入れて、時間があれば、読んでいます。前に持っていた本は書き込みなどで汚れてしまったので買い替えました。この本ですでに十数冊目です(笑)。

 この本で得たことは大きく2つあります。

 1つ目は、自分が生まれてきた宿命を思い、与えられた仕事を全力でまっとうすべきだということです。世の中は思うようにはなりません。だからこそ、置かれた境遇の中で、全力を尽くして自己を高めるべきなのでしょう。

 2つ目は、自分と縁があった人たちを大事にすべきということです。親孝行や目上を敬う気持ちは当然のことです。ですが、自分よりも若い人たちに何かをつないでいく努力はさらに尊いものだと思います。

 人生というものは思うようにならないし、生まれてきた境遇を変えることはできません。しかし、その人生の中で縁があった人たちと真剣に向き合い、与えられた仕事を少しでもよいものにしたいと考えています。

 それでも仕事を成し遂げられるかどうかはわかりません。そもそも「自分はできるんだ」などと驕ってはいけません。私はこれを「前向きな諦観」ととらえています。

――御社の改革においても「前向きな諦観」を常に意識しながらやっているのでしょうか。

 はい。「まずは自分が全力で頑張るんだ」と言い聞かせています。その成果は必ずしもすぐに表れなくても、次の世代、さらにその次の世代に引き継がれていくだろうと、自分を励ましながら、改革に取り組んでいます。

(構成・まとめ/松本裕樹)