「フェアネス(fairness)」とは、フェアプレー精神の「フェア」の名詞形だ。「公平」を意味する「フェアネス」は、民主党の政策パッケージ全体の理念的支柱である「オープン・アンド・フェアネス」の一翼を担うもので、諸政策に通底する理念となっている。民主党が打ち出している政策の多くには、日本社会を、より「フェア」な社会に変えていこうとする姿勢が色濃く反映されている。
一般的に「フェア」であることは好ましいことと思われているはずだ。実際に公平さという意味でのフェアネスは、民主主義という政治体制においても、自由主義経済という経済体制においても、非常に重要であることは間違いない。
しかし前回述べたように、民主党の主張する「オープン」や「ディスクロージャー」が、単に政府をガラス張りにするだけでなく、市民側にも開示された情報を活用する責任を生じさせるのと同様、フェアネスもまた、市民社会に対して厳しい課題を投げかけるものといえる。
社会全体がフェアであるためには、既得権益を放棄しなければならない場合が多いだろうし、フリーライダー(ただ乗り者)も厳しく追及されることになる。それ自体も一見良いことのように聞こえるかもしれないが、問題は自分自身が既得権益者であったり、フリーライダーであることに対して、われわれ自身が必ずしも自覚的であるとは限らないことだ。
まず、一言でフェアネスと言っても、民主党のフェアネスには以下の3種類が存在する。
1)機会均等
2)未来への責任
3)フリーライド(ただ乗り)禁止
このいずれにも、フェアであることの美しさと厳しさが同居している。フェアネスはけっしてきれい事だけでは済まされない。
機会は保障するが、
結果は保障しない民主党のフェアネス
まず一番目の「機会均等」は、政治学的にも重要な概念で、これと対比される概念として一方で「結果均等(結果平等)」が、もう一方で「自由放任」や「市場原理主義」というものがある。
機会均等とは、基本的に競争原理や市場原理を肯定しつつも、誰でも市場競争に参加する機会は与えられるべきであり、競争のスタートラインにつくところまでを保障するのは政治の責任であるという考え方を指す。いざレースが始まれば、能力の高低や努力の大小などで、結果は当然変わってくるが、政治は結果までは保障しない。能力や努力の如何に関わらず、政治が結果の均等までを保障する「結果均等」とは明確に区別される。