橘玲の日々刻々 2020年6月15日

「ひとを傷つける表現の自由はない」ので
自由な市民によって日本でも「リベラルな監視社会」が実現していく
【橘玲の日々刻々】

 テレビのリアリティー番組に出演していた22歳の女子プロレスラーが、SNSの誹謗中傷に悩んで自殺したとされる事件が波紋を広げています。この問題を受けて政府・与党が、ネット上で他人を中傷する悪質な投稿者を特定するための制度の検討をはじめたと報じられました。

 ここでまず確認しておかなくてはならないのは、これは「国家による国民の監視」とか、「権力が表現の自由を踏みにじる」という話ではないことです。そもそも政府・行政関係者は、こんな面倒なことをやりたいとはまったく思っていないのですから。

 だとしたらなぜ、ネットを規制しようとするのか。それはもちろん、国民が求めているからです。

 近代とは、経済的なゆたかさを背景に、個人の自由が大きく拡大した時代です。それは宗教(教会・寺社)やムラ社会(身分制)、イエ(家父長制)など、結婚や職業選択に際して個人の人生にきびしい枷をはめていた中間共同体の影響力が縮小したことで実現されました。とはいえ、誰も一人で生きていくことができない以上、安全な暮らしを保障してくれる共同体は不可欠です。こうして、個人が自由になるほど国家がより大きな役割を果たすようになりました。

 近代社会では、戦争でも犯罪でも、自分たちに危害をおよぼすような事態が起きると、ひとびとは国家に対処を求めます。その結果、軍隊や警察・司法が肥大化し、ヤクザのような民間団体による私的制裁・解決は不正なものとして排除されるようになりました。自分たちで(自生的に)問題を処理できなければ、ますます国家に多くを依存するしかないという構図がこうしてできあがるのです。

 街頭に設置された不気味な監視カメラには、当初、「プライバシー侵害」とのはげしい反発がありましたが、それが安全に役立つとわかると、たちまち商店街に監視カメラ設置の要望が寄せられ、いまでは未解決の凶悪犯罪が起きるたびに「なぜ監視カメラがないんだ」との批判が行政に殺到します。

 監視によって社会を統制しているのが中国で、欧米など「民主国家」から批判されますが、実態を見ればさしたるちがいはありません。ロンドンでは至るところに監視カメラが設置されており、日本でも住宅街で犯罪が起きれば、近隣家庭の監視カメラの映像を警察に提供するのが当然とされています。

 中国では監視によって犯罪が減り、社会が安全になったことに多くのひとが満足しているといいますが、これは私たちも同じでしょう。現代では、ひとびとは自ら監視されることを求めているのです。

 このような社会では、不愉快なことや許しがたいことが起きると、国民はごく自然に国家の介入を求め、権力による解決を期待します。SNSへの規制論議でもまさにそのとおりのことが起きており、「自主的に解決すべきだ」との声はほとんど聞こえてきません。

 「リベラル」な世の中では、「ひとを傷つける表現の自由はない」とされます。だとしたら、「ひとを死に追いやるような表現の自由はない」のは当然のことです。もはやこの潮流に抗することは不可能でしょう。

 中国やロシアのような独裁国家でなくても、自由な市民によって「リベラルな監視社会」は実現するのです。

参考:梶谷懐、高口 康『幸福な監視国家・中国』 (NHK出版新書)

『週刊プレイボーイ』2020年6月8日発売号に掲載

 


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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