離島と下町の高校で培われたキャリア

――先生は東京学芸大学附属高校から同大学・大学院へと進学して、都立高の教員になっていますね。

栗原 私は中野区生まれで、地元の区立中学から都立西高に進みたかったのですが、そのとき学校群制度が導入され、合格しても西高に入れるかどうか分からない。そのため、国立の付属高を併願する受験生が多くいました。高倍率でせっかく入った付属高でしたが、在校中に学園紛争が起き、校長を殴ってしまった同級生もいるような状態。卒業式もないまま、高校生活は虚無感とともに終わりました。

 親にも先生にも「おまえが男だったらなあ」とよく言われました。公務員になれば男女の差はない。そうしたアドバイスもあり、都立高校教員を目指すことになります。初任校は都内で唯一、畜産科がある瑞穂町の農業高校でした。

 最初の異動の時に、へき地教育に関心をもった私は、八丈島の高校を希望したのですが、多摩地区につくる進学校の開設要員に推薦する予定だったとかで慰留されました。それを押し切って、1歳半の子どもと夫の3人で島に渡りました。子どものために保育園の年少クラスをつくってくれるなど地元では大歓迎され、このまま定年まで島の先生でいようと、地元に家を買うことまで考えたほどです。

 島内では八丈高校が最高学府です。希望する普通科の生徒を寮のある国立大に入れようと、筑波大や学芸大を目標に、6年間生徒のために本気で進学指導に取り組みました。

――管理職になりたいとは、あまり考えていなかったようですね。

栗原 数学を教えるのが好きで、教員が向いていると思っていました。教壇に立って20年たったとき、管理職試験を勧められました。受験は一回だけと決めて受験し、1996年に合格、翌年は担任をしながら任用前研修を受けました。この頃から、都立高校の改革推進計画が実行されるようになります。

 教頭として最初に赴任したのは旧第6学区の小松川(江戸川区)で、当時は城東(江東区)に抜かれて3番手。そこで、千葉大に20人進学と目標を定め、千葉大の副学長とも相談しながら、高大連携も実現しました。次の赴任先は、中堅校の本所(墨田区)でした。遅刻する生徒や、茶髪の生徒もいたので、ここでは一転して生活指導が主となりました。

――隅田川の東側が続いていますね。

栗原 管理職は赴任先を希望できないのです。2004年に校長に昇格して初めての赴任先も、葛飾区にある3年後の閉校が決まっていた水元でした。内示が出たとき、「なんで私が?できるかな?」と正直思いました。

――教育困難校だったのですね。

栗原 はい。中退率が都立全日制普通科で一番高い、年17.6%でした。敷地1万坪の広大な校地にちょうど桜が咲いていましたが、校舎に入るとガラスの蓋が取れて針が垂直に曲げられた時計があり、トイレの扉は壊されたまま外されていました。

 着任式で体育館に入ると、生徒が車座になって座っている。なぜか尋ねると、立たせると場所を動いてしまうからだと。誰も私の話は聞いてくれません。この学校に女性管理職は初めての配置と言われましたが、様子にあぜんとして、用意していた式辞はやめて、すぐさま舞台を降りていきました。