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湯谷昇羊 不屈の経営者【列伝】

父親急死、35歳で突然ファミレス社長に
役員造反、売上低迷など乗り越えた決断力

――サトレストランシステムズ代表取締役兼執行役員社長 重里欣孝

湯谷昇羊 [経済ジャーナリスト]
【第16回】 2010年11月11日
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ファミレスを創業した父親が突然急死、何の準備もなく35歳で社長に就任した重里欣孝を待っていたのは、言うことを聞こうともしない役員、新業態の失敗、不景気による売上の低迷、返済を厳しく迫る銀行などだった。重里はその都度、果断な手を打ってこれを乗り切り、郊外型和食ファミレス日本一となった。売上低迷の打開策は「鍋」だった。

会社を継ぐ気はなく東京へ行くも
「父の一言」で入社を決意

サトレストランシステムズ 重里欣孝社長

 和食レストランチェーン「さと」は、重里欣孝の父親が寿司屋から拡大・発展させたものだ。「和食のチェーン化は不可能」と言われるなかで、ファミレスブームの昭和40年代、寿司をやりながら、まず「洋食さと」をチェーン化してきた。1979年には100店舗を達成している。

 重里は中学生のときから店でアルバイトをやり、洗い場を含め様々な仕事を経験してきた。しかし、「田舎はいやだ」と関西を飛び出し、東京の大学に通った重里に父親の仕事を継ぐ気はなく、宝飾関係の会社に就職を決めていた。そんなある夜、父親が重里の東京のアパートを訪ねてきた。「一緒に働いてみてくれないか」。強気一辺倒だった父親が、この夜ばかりはしんみりとした口調で息子に語りかけた。これまで見たこともない父親の姿を見て、重里は父親の会社で働くことを承諾した。

29歳で和食「さと」の展開を開始
出店成功で大証1部に昇格

 入社した重里は、安価で美味しい食材の仕入れ・加工・輸入をするため、アジア各地に派遣され、過酷な仕事を任されてきた。1985年、奈良県の橿原で和食店の実験店舗を出店させた。この段階ではまだ和・洋の両方を扱う店で、ピザや寿司を出していた。

 1986年には米国のハンバーガーチェーン「ホワイトキャッスル」と提携、重里はニューヨークに3ヵ月間の研修に行った。そして次々と出店、15店まで広げたが、ライバル店に痛撃をくらい撤退を余儀なくされた。

 そうしていよいよ1987年に和食だけの「さと」の展開を始める。関東と中部に出店したが、29歳の重里はそのプロジェクトリーダーを任された。出店は大成功で、「こんなにお客さんが入るものか」と思うくらい入った。どの店も月の売上が2000万円を超えるなど絶好調で、重里は出店を加速させた。

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湯谷昇羊 [経済ジャーナリスト]

経済ジャーナリスト。鳥取市出身、1952年生まれ。法政大学経済学部卒業。1986年にダイヤモンド社入社、2004年週刊ダイヤモンド編集長。2007年営業局長兼論説委員、同年取締役。2008年同社退社。2000年に立命館大学客員教授として教鞭をとる。主な著書に、「迷走する銀行」、「生保危機の真実」、「会社再建」、「立石一真評伝 『できません』と云うな」(いずれもダイヤモンド社刊)、「サムライカード、世界へ」(文春新書)などがある。最新刊は『巨龍に挑む 中国の流通を変えたイトーヨーカ堂のサムライたち』(ダイヤモンド社刊)。


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