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めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編

チェルノヴィッツ大学で正准教授に。境界都市の複雑な歴史的背景

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第25回】 2008年9月17日
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 1909-1910年冬学期からシュンペーターはチェルノヴィッツ大学正准教授として講義をはじめた。チェルノヴィッツ(Chernowitz)はブコヴィナ(Bukovina)の中心都市である。チェルノヴィッツはドイツ語名で、現在はウクライナ語でチェルニウツィ(Chernivtsi ※注1)という。シュンペーターが赴任した1909年時点では、オーストリア帝国領内の最東端の都市だったので、本稿ではウクライナ語表記とドイツ語表記が混在することになる。

 1909年9月、チェルノヴィッツへ移住し、10月から1911年7月までぴったり2年間、4学期分勤務した、とシュンペーターの各種評伝に書いてあるが、チェルノヴィッツがどこにあるのか、どうにもよくわからない。現在のウクライナの地図を見ると、西部のはずれ、モルドヴァやルーマニアとの国境近くにチェルニウツィが見つかる。しかし、ブコヴィナがなんだかわからない。

 図書館で大きな世界地図を広げると、カルパチア山脈の東南側にウクライナとルーマニアの国境をまたいでブコヴィナという地域がある。ウクライナ側が北ブコヴィナ、ルーマニア側が南ブコヴィナだ。ロシアとグルジアにかけて北オセチアと南オセチアがあることを想起されたい。ちょうど同じ関係にある。

 後年、都留重人氏がハーバード大学で師事したシュンペーターについていくつかの文章を残しているが、こんな一節がある。

 「今ではソ連の一部になっている当時オーストリア東端の町チェルノヴィッツで教壇に立つことになった。しかし、ここにもかれは2年しかいない。東ヨーロッパの田舎町大学で、26歳の青年教授が、どんな生活をしたかについては、今やだれも証人はいないのだが、晩年にシュンペーター自身が語った体験談は、あまりにも奇譚めいていて、私たちは、『またアラビアン・ナイト物語が始まった』と野次るよりほかないほどであった」(都留重人 1964 ※注2)

 残念ながらこれ以上の言及はないのだが、都留先生らが「アラビアン・ナイト」と表現しているのだから、イスラム風の話など、エキゾチックな体験談を聞かされたのだろう。大げさなのではなくて、多文化の入り混じるチェルノヴィッツならではの体験だったに違いない。

シュンペーターが正准教授を務めた
チェルノヴィッツ大学とは?

 まずはチェルノヴィッツ大学のホームページを探してみる。しかし、なかなか出てこない。Chernowitz Universityではヒットしないのだ。そこで、ウクライナ語で検索しようとしたが、キリル文字が周囲のパソコンでは使えない。ウクライナ語のアルファベット表記を見つけてようやく探し当てた。

 チェルノヴィッツ大学のホームページ(※注3)。写真をご覧いただきたい。バロックのようでもあり、ゴシックのようでもある。歴史的な様式をこれでもかと引用した華麗にして豪壮な建築が現在のチェルノヴィッツ大学である。ウィーンの壮麗な建築と同じだ。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


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「経済成長の起動力は企業家によるイノベーションにある」とする独創的な理論を構築したシュンペーターの発想の冒険行を、100年前のウィーンから辿る知の旅行記。

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