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シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問
【第1回】 2016年12月12日
著者・コラム紹介バックナンバー
パトリック・キングズレー,藤原朝子 [学習院女子大学]

戦後最悪の難民危機は「誰」が引き起こしたのか
――シリア難民と同じ目線で3大陸17か国を歩く

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国民の半数を超える450万人が国を出たとも言われるシリア難民、そして「第二次世界大戦後最悪の人道危機」と言われるヨーロッパ難民危機。2015年、トルコのリゾート地の沿岸に流れ着いた3歳の男の子アラン・クルディの遺体写真で一気に表面化したこの問題は、パリ同時多発テロ、ブレグジット(英国のEU離脱)、トランプ次期アメリカ大統領の誕生と目まぐるしく動く世界情勢のなか、もはや「ニュース」として報道されることは減ってしまった。
だが、悪化の一途を辿る難民危機を今も報道しつづける1人の記者がいる。ガーディアン紙初の「移民専門ジャーナリスト」にして、『シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問』(原題The New Odyssey)の著者、パトリック・キングズレーだ。
いったいなぜ、これほどの規模で難民がヨーロッパに押し寄せているのか? 同書のプロローグから、その驚くべき実態をご紹介しよう。

ハーシムの「旅」のはじまり
――2015年4月15日 水曜日 午後11時

 陸地から遠く離れた、真っ暗な海の上。

 ハーシム・スーキには、隣にいる人の顔は見えなかった。けれど、その人物が悲鳴を上げているのはわかっていた。悲鳴の原因が自分であることも。

リビアからヨーロッパに向かう船。小さな船に何百人と詰め込まれ、転覆による死亡事故が後を絶たない Photo by Maasimo Sestini <拡大画像を表示する

 ハーシムは2人のアフリカ人女性(ソマリア人のようだったが、それを確かめる余裕はなかった)の上に倒れ込んでいたのだ。体を起こそうにも、彼女たちを踏みつけなくてはいけない。すぐにもどいてほしいと、彼女たちが思っているのはわかったし、ハーシムもそうしたかった。でもそれは不可能だった。彼の上にも誰かが倒れ込んでいて、おそらくその上にも何人かが覆いかぶさっていたからだ。

 その木造船には数十人が押し込められていて、場所を動こうとすると、密航業者に蹴とばされた。船のバランスが崩れたら、転覆してしまうためだ。

 おそらく夜の11時頃だったが、正確にはわからない。ハーシムは時間と場所の感覚を失っていた。エジプト北岸で船に乗り込んだのが夕方だったから、まだ地中海の南東部だろう。暗闇の中、船が大きく揺れるたびに、人々は悲鳴を上げた。

 その悲鳴は、アラビア語もあれば、そうでない言葉もあった。「乗客」にはハーシムのようなシリア人やパレスチナ人などの中東出身者もいれば、スーダンやソマリアなどのアフリカ諸国から来た人もいた。彼らが目指していたのは、スウェーデンやドイツなどの北ヨーロッパの国だ。いや、崩壊した母国よりましな未来があるならどこでもよかった。だから彼らは、イタリアを目指す危険な船の旅に出た。うまくいけばあと5〜6時間で到着するはずだが、ハーシムも船の上の誰も、その晩を持ちこたえる自信はなかった。

 1時間後、一行はもう少し大きな船に移った。さらにしばらくして、もっと大きな船に乗り換えた。乗り換えるといっても、密航業者がハーシムたちをジャガイモの袋みたいに投げ移しただけだ。大きな船になって、ようやくスペースに余裕ができたけれど、みんなびしょ濡れだった。エジプトで最初のボートに乗るとき、浜辺から少し離れたところに泊まっているボートまで水の中を歩かなければならなかったし、2番目の船は最初から水びたしだった。みんな濡れた服を着て、ぶるぶると震えていた。吐き気もした。

 突然、ハーシムの左側に割り込んできた男が、ハーシムの顔に吐き、ハーシムは自分の右側の人に吐いた。誰もがそんな状態だった。1人2000ドル以上払ってようやく乗った船で、他人の吐瀉物を浴びて震えていたわけだ。

 「まるでゲロ・パーティーだな」と、ハーシムは苦笑した。

戦後最悪の難民危機は「誰」が引き起こしたのか

 何より異常なのは、今はこれがありふれた光景になったことかもしれない。現在世界では、第二次世界大戦後で最大の難民が生まれている。それが最も劇的に見られるのが地中海だ。2014〜2015年、ハーシムが乗ったようなおんぼろ船で地中海を越えた人は約120万人。内戦中のシリア、アフガニスタン、イラクから前例のない数の人がヨーロッパに押し寄せており、欧州連合(EU)によると、その数は2016〜2018年には計300万人を超えそうだ。

 これまでは、世界のどこかで難民危機が起きると、対応に追われるのは近隣の途上国であることが多かった(国連によると世界の難民の86%は途上国にいる)。だが今、ヨーロッパにもその危機が及ぼうとしている。

 移民がヨーロッパを目指すこと自体は珍しくない。アフリカでは長年、モロッコからスペインへ、またはセネガルからカナリア諸島(スペイン領)へ入ろうとする人が後を絶たない。リビア、トルコ、エジプトはもう長い間、イタリアやギリシャ、ブルガリアを目指す人の中継地になってきた。だがその規模がこれほど大きくなったのは、初めてのことだ。

 まず2014年、シリア、エリトリア、サハラ以南のアフリカからの難民が急増した。その多くは、「アラブの春」後に法秩序が崩壊したリビアかエジプトから、船でヨーロッパを目指した。その結果、この年密航船でイタリアに到着した人は約17万人と、前年の3倍に増えた。

 2015年も同じペースで、サハラ以南の国を出てきた人々が、リビアやエジプト経由でヨーロッパを目指した。ところがこの年、難民の流れに劇的な変化が起きた。イタリアに代わって、ギリシャがヨーロッパ最大の「難民の玄関口」になったのだ。まず、北アフリカ諸国がシリア人へのビザ発給を制限したため、シリア難民がエジプトやリビアから船に乗るのが難しくなった。それに難民たちも、内戦が激化するリビアには行きたくなかった。そこでシリア難民(と国内が不安定化するアフガニスタンとイラクを逃れてきた人々)は、トルコ経由でギリシャの島を目指すようになった。のどかなバカンス先だったエーゲ海の小さな島々は、突然ヨーロッパ難民危機の発火点となったのだ。だが、財政危機への対応でてんてこまいのギリシャ政府には、とても対応する余裕などなかった。

 こうして、西ヨーロッパの頭痛の種だった難民問題は、東ヨーロッパを巻き込む問題へと発展した。2015年、85万人以上がトルコ沿岸を出発し、その大部分がバルカン半島を北上して、北ヨーロッパの国々を目指した。その5年前、セルビア・ハンガリー国境を越えた難民は2400人しかいなかったが、2015年にはその100倍の数が押しよせた。慌てたハンガリー政府がフェンスを設置すると、難民たちはクロアチア経由でハンガリー入国を試みたため、クロアチア・ハンガリー国境も閉鎖された。

 難民危機は、EUに亀裂をもたらした。イタリアとギリシャは、莫大な数の密入国者に両国だけで対応するなんて非現実的だとして、EU全体での責任分担を求めた。EUの現行規則(ダブリン条約)では、すべての難民認定希望者は最初に足を踏み入れたEU圏の国で、申請を行わなければならない。ところがイタリアとギリシャは、ボートで到着した人々に申請を促さず、彼らが次の国に向かうのを黙認した。

 イタリアとギリシャは、他のEU加盟国に一定数の難民の引き取りを求めたが、他の加盟国は、形ばかりの受け入れを表明するばかり。2015年9月に、EU全体でギリシャとイタリアから難民12万人を受け入れることが決まると、ブリュッセルのEU官僚たちは自画自賛したが、加盟国の反応は鈍かった。それに12万人という数は、2015年に両国に到達した人の9分の1にすぎず、問題の解決にはほど遠かった。加盟国の連帯というEUの基本理念の一つは、失われてしまったようだ。

 秋に入ると国境にフェンスを設ける国が増加し、国境の完全封鎖をほのめかす国さえ出てきた。これは域内の移動の自由という、EUのもう一つの重要な基本理念を揺るがした。この理念を法制化した1985年のシェンゲン協定は、ヨーロッパ統合の最大の成果の一つと考えられている。同じ時期に進行していた、ギリシャの財政危機の余波と合わせて、難民危機はヨーロッパの一体性を揺るがすEU史上最大の脅威とみなされるようになった。

 同時にそれは、確実に避けることのできた危機でもあった。そもそも「難民危機」という表現が、ある意味で間違っている。たしかに危機は存在する。だがそれは基本的に難民が引き起こしたのではなく、ヨーロッパの対応が引き起こしたものだ。

 85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。たしかに歴史的に見ればそうだろう。だがそれは、約5億人のEU人口の0.2%程度にすぎない。もし(この「もし」が問題なのだが)適切に対処すれば、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。難民危機のために社会的インフラが破綻寸前に陥っている国があるが、それはヨーロッパの国ではない。その最たる例はレバノンだ。レバノンは人口450万人ほどの小国だが、2015年の時点で、約120万人ものシリア難民を受け入れている。つまりレバノンに住む人の5人に1人が、シリア難民なのだ。この数字に、ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

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    パトリック・キングズレー(Patrick Kingsley)


    英国『ガーディアン』紙初の移民専門ジャーナリスト。2013年には記者に贈られる「フロントライン・クラブ・アワード」を、また2014年にはBritish Press Awards主催の「ヤング・ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞するなど、数々の受賞歴を持つ若手ジャーナリスト。同紙エジプト特派員からキャリアをスタートさせ、これまで25か国以上からレポートを発信している。本書でも中心的に取り上げられるシリア難民ハーシム・スーキの旅をドキュメントしたガーディアン紙の連載記事『ザ・ジャーニー』で、2015年英ジャーナリズム賞の外国特派員賞を受賞。
    Twitter: @PatrickKingsley

     

    藤原朝子[学習院女子大学]

     

    学習院女子大学非常勤講師。フォーリン・アフェアーズ日本語版、ロイター通信などで翻訳を担当。訳書に『撤退するアメリカと「無秩序」の世紀』(ダイヤモンド社)、『ハーバードビジネススクールが教えてくれたこと、教えてくれなかったこと』(CCCメディアハウス)、『未来のイノベーターはどう育つのか ―― 子供の可能性を伸ばすもの・つぶすもの』(英治出版)など。

     


    シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問

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    「シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問」

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