「歴史の判断を待つ」と語る菅首相
支持率ゼロでも退陣しない“究極の逃げ”か
5月13日の参院予算委員会で、菅直人首相は中電の浜岡原発に対する運転停止要請に関連してこう述べた。
「行政指導、政治判断で(要請を)させてもらった。その評価は歴史の中で判断してほしい」
これはこういう意味であろう。
中電への要請内容やその手法は正しい。理解しない人もいるが、長い歴史の中で評価すれば必ず正しいことが解る。
首相は最近になって窮すればしばしば“歴史”を持ち出す。「歴史の判断を待つ」ということは、自分の言うこと、することは正しいが同時代人にはなかなか理解されない。しかし、歴史という長いスパンで見れば正しいことが解るはず。
これは“究極の逃げ”である。
支持率がゼロになっても、“歴史”が自分に軍配を上げるから退陣しない。そういうことになる。
それなら、国会や選挙などの政治制度は全く存在意義がなくなる。
そもそも、歴史の評価に逃げ込んで居座るような指導者を排除するために、国会もあるし選挙もあるのだ。
最高指導者に「歴史の判断を待つ」というセリフが許されるのは、唯一退陣のときの“捨てゼリフ”としてだけである。菅首相のように、居座るための口実に使うと、逆にますます発信力が弱まっていく。
菅首相の言葉は心に届かないという人が多い。しかも日に日にそういう人が増えている感じがする。
「歴史」や「運命」を多用するより、平凡な言葉に全身全霊を傾ければ信頼感も徐々に増していくのではないか。