G8という格好の舞台を活かせなかった
菅総理の冒頭発言

 フランスのドービルで開かれていたG8サミットは、5月27日午後に閉幕した。議長国フランスの配慮で、菅首相には異例の冒頭発言の機会が与えられた。そして、首脳宣言には「日本との連帯」が明記されたが、新聞の見出しは例えば「原発 日本不信ぬぐえず」(2011.5.28.日本経済新聞)といった冷めた調子のものが多かった。

 G8サミットは、世界から寄せられた支援に感謝し、第一原発の危機克服のプロセスをしっかりと説明し、日本が全体としては安全でありそしてわが国の経済が間違いなく回復することを、「具体的に」世界に訴える格好の機会だったと(素人目には)思われる。報道によれば、菅首相は、自然エネルギーへの依存度を高めることを力説したと云う。そのような「抽象的な」決意を、世界の首脳は、サミットの場で、果たして菅首相から聴きたかったのだろうか。大いに疑問なしとしない。

総理大臣の問題を
個人の能力や資質の問題に帰すべきではない

 このようなコメントを述べれば、必ず「首相の器(能力や資質)の問題だ」とか「側近や知恵袋の人選が歪んでいるからだ」といった声が寄せられる。確かに、それにも一理はあるだろう。では、菅首相が退任したら、すべての問題は解決するのだろうか。あるいは、側近や知恵袋を総入れ替えすれば、それで事態は劇的に改善するのだろうか。確かに政治リーダーの能力や資質の問題は重要だし、また、どのような人に指南を仰ぐかという観点も劣らず重要だと考えるが、そもそも、こういった問題の所在を、個人の能力や資質に帰すアプローチは、果たして正しいのだろうか。

 この国では、5年以上続いた小泉政権の後、わずか1年前後という超短命の政権が連続して4代も続いている。4代(あるいは5代)連続して首相を務めるに足る能力や資質に欠けたリーダーを、この国は選び続けてきたのだろうか。それは、たまたまの偶然なのだろうか。