(2008年5月、四川)

 5月11日、上海を朝飛び立った飛行機は、正午前に成都双流空港へ着陸した。空港内で軽い昼食を済ませた男は、タクシー乗り場に並んで車内に乗り込むと、早速運転手と交渉を始めた。

 背広姿の立派な紳士は成都市内の一流ホテルへ向かうのだろうと、運転手は勝手に思い込んでいたが、指示されたのは、成都から150キロ離れている、とんでもない田舎町だった。茂県のような貧農地区に、この紳士はいったい何の用事があるのだろうか。今から茂県まで往き、夜には成都まで復る半日チャーターの条件に、少々余計に料金を吹っかけてみたが、紳士はあっさりと了解して、早く車を出すよう急かされた。

 茂県の小さな町から、さらに山間部へ入った農村部落にある小さな中学校。レンガ作りの2階建て校舎には教室が2つしかなく、生徒数の少なさが判る。割れた窓ガラスがテープで補修されており、その干乾びたテープのくすんだ色は、長いことガラス交換されずに放置されたままであることを物語っていた。

 ここは羌族の村である。人口11万人の茂県は、その8割以上を少数民族である羌族が占めていた。政府は少数民族への優遇措置を講じていると唱えているが、やはり人目につかぬ僻地教育までは十分な施しがなされていないようだ。

 あまり高く売れることが望めない唐黍や小麦、馬鈴薯などを山間部の狭い農地で耕す農民たちの収入は低く、自給自足に近い生活を送っている。

 日曜日であったが、農作業の手伝いのために休みがちな生徒たちの勉強の遅れを取り戻すため、休日も教室を開放して無償で補習授業を行う熱心な教員がいた。

 それでも、やって来たのは4名の生徒に過ぎなかった。他の生徒たちは今日も家の手伝いに汗を流しているのだろうと、その教員は胸を痛めていた。親や家族が悪いのではない、貧しさがそうさせるのだ。でも、それから抜け出るには、やはり教育しかない。自分が進むべき道を再確認した思いで、彼は子供たちへの視線に熱を込めて授業を行った。

 教室の壁時計を見ると、もう1時近くになっている。空腹を訴えることなく懸命に自分の声と黒板に注意を向ける子供たちを見て、彼らも勉強を渇望しているのだと満足したが、これ以上お昼をお預けにするのもかわいそうだと、補習授業の終了を告げた。

「再見、老師(先生さようなら)」

「明天見(また明日)」