1950年代後半、国際市場におけるアメリカの地位は、復興を遂げた諸外国に脅かされつつあった。しかしアメリカは、この原因を製品やサービス、あるいは技術や能力といった競争力の問題とはせず、為替、労働コスト、さらには政策に求めた。そして周知のとおり、この後アメリカ製造業は他の資本主義国の後塵を拝することになる。ドラッカーは本稿において「知識」の重要性を説く。まだ1959年のことだ。また「知識労働者」がこれからの経済を牽引することにも言及し、アメリカが直面した「新しい現実」を浮き彫りにした。
アメリカ経済 繁栄の幻想
アメリカの公共政策や企業方針は、グローバル経済における傲慢な自信過剰を反映している。単純化しすぎているかもしれないが、それらは次の4つにまとめられよう。
(1)アメリカ経済にとって最も大切なのは自国市場であり、その業績がアメリカのビジネスと国民経済を正確に評価する尺度である。
(2)アメリカがその生産性においても、技術とマネジメントに関する知識においても他国を凌駕し、優位に立つのは当然の帰結である(人によっては「神から授かりたもうた」とまで言いかねない)。
(3)いわゆるドル不足は、グローバル経済には不可避な現象である。諸外国は買えるならばいくらでもアメリカ製品を輸入したがるばかりか、アメリカが諸外国から購入したい財よりも、諸外国がアメリカに求める財のほうがはるかに多い。
(4)要するに、アメリカがグローバル経済を必要としているというより、グローバル経済がアメリカを必要としているのだ。
こうした思い込みは、自然の摂理とまでいかなくとも、ビジネスマンや労働組合幹部、政治家はもとより、一般の人々の間にまで、自明の理として広く浸透している。私が見たところ、このような考えは危険なまでに当然視されているが、このレベルにとどまりそうにない。
かつてその世界的な地位にあぐらをかいていた、20世紀初頭のイギリスの自己満足――これは第一次世界大戦以来、イギリス人の後悔の種になっているが――にかなり相通じるところがあるのではないか。
先の思い込みのうち、真実といえるのは、せいぜい半分といったところだろう。しかも、その真実味は急速に薄れつつある。