9月の半ばに入った宮城県女川町は、辺り一面が雑草に覆われていた。夏の間までとくに芽吹きに気づかなかったのは、津波がもたらしたヘドロが、いくぶん雑草の勢いを削いだせいだったのだろうか。しかし、よく見れば、草が全く生えない場所もあり、所々に家の土台がのぞいて、まだら模様となっている。高台から遠目に見たかつての住宅街は、やわらかい緑色の景色となり、3.11から時の止まったような被災地で、かろうじて時の流れを感じさせた。
東日本大震災後、筆者が女川に入ったのは、4月上旬だった。石巻や牡鹿半島の取材を経て、様々な壊滅的な状況を目にしていたが、女川の津波の威力のすさまじさには衝撃を受けた。鉄筋コンクリートのビルがいくつも、箱の形のまま、サイコロのようにゴロゴロと転がっていた。そこは、あまり色を感じない世界だった。街道沿いの住宅街には、行方不明の家族を探す人や、思い出を探す人、あるいは土台だけになった家の場所に、毎日足を運ぶ人々がいた。
女川町の被害は、9月27日現在で、死者・行方不明者を合わせて900人ほどとなっている。町の約1割が犠牲になった。
20メートルあまりの津波が襲来!
77歳女性を救った2匹の飼い犬たち
女川街道沿いの高台に建つ阿部光子さん(77)の自宅は、2階の中程まで浸水した。海岸線から1キロメートルほど緩やかな坂を上がり、さらに急勾配の細いバイパスを上る坂道の途中にある。そこにも、海抜20メートルあまりとされる、尋常ではない高さの津波が駆け上がってきた。
阿部さんは、黒い濁流が迫る中、自宅前の急な坂道を、飼い犬に引っ張られる形で駆け上り、助かった。
あの日、地震の長い揺れの後、阿部さんは、ひとり暮らしのご近所さんの様子を見に行った。いつも何かと面倒をみてあげている、86才のおばあさんが、坂の下の家に住んでいた。津波警報のサイレンは鳴っていたが、「まさかここまでは来ない」と思っていた。去年のチリ津波でも、避難して40分ほど待っていたが、50センチメートルしかこなかったからだ。