「スマートな人(賢い人)って、実際そんなに、いないよね」

 私がスマートフォンに関する連載を書いていることをご存知の方から、たまにこんなご指摘を受けることが、たまにある。

 曰く、スマートフォンというけれど、使っている人間がスマートになったようには思えない。スマートフォンというのは、スマートな人ではなく〈スマートになりたい人〉のための電話や情報端末で、「家内安全」や「学業成就」などと同じく、人間の願望を表したお守りのようなものではないか、と。

 なかなか興味深い話である。まず、こうした少々皮肉めいた指摘が増えているというのは、スマートフォンが浸透しはじめたことの証左だろう。大都市圏では、すでに出荷の半分強がスマートフォンで占められるようになっており、電車の中を眺めていると、確かにフィーチャーフォン(いわゆるガラケー)利用者は少数派になりつつある。

 またこうした意見が、最終消費者のみならず事業者サイドからも聞かれることも、移行の過渡期にあることをうかがわせる。仕事柄、通信事業者やメーカーの方から、スマートフォン時代にどのようなインフラやサービスを作るべきか、というお問い合わせを多くいただくのだが、明示的にこうした言葉を使わないまでも、「いかに人間をスマートにするか」という意識を事業者側が有している印象を受ける。

 こうした指摘に対し、私自身の見解は「半分正解、半分間違い」というところである。確かに人間はそんなにスマートではないし、スマートフォンを持てばスマートになれるのであれば世話はない。しかし、スマートフォンによって社会における人間の行動が最適化され、社会構造が変化する可能性は、十分にあると考えている。

節電対策とスマートフォン

 たとえば今年の夏、日本列島は〈原発ショック〉に襲われた。東日本大震災に伴う、東京電力福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、日本中で原発利用の点検や見直しが進んだ結果、震災の影響を直接受けていないはずの西日本地域も含め、あちこちで電力供給が不足し、節電を余儀なくされた。