大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。

 高橋是清(1854-1936)は2度、窮地の日本経済を救った。前回に続き、2度目、昭和恐慌の物語である。

1920年代半ば、金本位制に復帰するも
恐慌によって各国が再離脱

 デフレ恐慌で混乱する中、若槻礼次郎民政党政権が崩壊し、犬養毅政友会政権が成立したのが1931年12月13日だった。5回目の大蔵大臣に就任した高橋是清は、その日のうちに金輸出再禁止を決めた。つまり、再び金本位制から離脱したのである。

 1920年代半ばから各国は金本位制に復帰し、1930年の恐慌によって再び金本位制から離脱していった。高橋是清はこの流れに沿って決断したといえよう。

 金本位制は第1次大戦(1914-18)で崩壊し、1920年代に入ると各国は順次復帰していった。イギリスは1925年4月、離脱以前の旧平価(ポンド高)で金解禁(金本位制復帰)すると発表した。英国議会の予算演説で発表したのは当時の大蔵大臣、ウィンストン・チャーチル(のちの首相、1874-1965)である。

 これに対し、1919年に大蔵省を辞めてケンブリッジ大学にもどり、パンフレットや論文を書いていた経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)が批判した。

 「ポンドの外国為替価値を、それが戦前の金換算価値を10パーセント下回っている点から戦前水準まで引き上げるという政策は、」「晩かれ早かれ、各人の賃金を1ポンドについて2シリングずつ切り下げる政策」である。「デフレーションは一度少しでも動き出せば、その進展が加速度的となる。もし実業界全般に悲観論が広まるならば、その結果、貨幣流通の速度が鈍らされ、別にイングランド銀行が公定歩合の引上げまたは預金減少の手を打たずとも、デフレーションを長びかせることができる。」(ケインズ「チャーチル氏の経済的帰結」1925★注①)