僕はモノの味がわからない。比喩ではない。実際に味覚音痴だ。まずは新米と古米の区別がつかない。日本酒の特級と二級の差もよくわからない。純米酒と大吟醸の違いも、たぶん飲み比べたとしてもよくわからないような気がする。

 でも(矛盾しているけれど)美味しいものは好きだ。美味しいものと不味いものの違いはわかるつもりでいる。わかるけれど、平気で料理に味の素をふりかけたりコショウを振ったりマヨネーズをどっぷりとつけたりするので、当然ながら家族からは嫌がられる。

 店によるけれど、高級寿司店より回転寿司店のほうが好きだ。なぜなら回転寿司は、ワサビを別にくれと言えばたっぷりくれるから。高級寿司店(と書きながら、銀座の久兵衛とか何とか、そんな店には実は行ったことはない。僕が書く高級寿司店は、要するに回らないカウンターがある寿司屋だ)では、やっぱりワサビだけをたっぷりくれとはちょっと言いづらい。

 ワサビや唐辛子や胡椒に対する僕の情熱は半端ではない(そしてこの情熱は誰もほめてくれない)。タバスコやハバネロベースの特性唐辛子は我が家のテーブルの上の必需品。僕以外の家族は誰も見向きもしないが、とにかくふんだんに消費する。

 味覚だけではない。嗅覚もかなり鈍い。金木犀の香りがよくわからない。それだけなら単なる嗅覚障害のようだけど、でも沈丁花の香りは、かなり離れていても感知することができる。

 ……書きながら何となくわかってきた。要するにそもそもの感覚器のつくりががさつなうえに、大脳皮質における感覚野の幅や位置が、少し標準とずれているのかもしれない。そういえば僕は味覚音痴で嗅覚音痴であると同時に、さらには方向音痴で正真正銘の音痴でもある。音痴の四重奏。

 もっと感覚野の位置がざっくりと違えば、奇人か天才になっていたのかもしれないけれど、ずれ方が中途半端だから、結局は○○音痴程度なのだろう。

 少し前のことになるが、ある雑誌から「自分のこだわり」についての短いエッセイを依頼された。依頼されたそのときはあっさりと応じたのだけど、締め切りが近づいていざ机に向かってから、何を書けばいいかわからなくなった。

 なぜなら僕にはこだわりがないのだ。現在の商売道具であるパソコンも、かつての商売道具でありビデオカメラも、ジーンズも車もラーメンも、とにかくこだわらない。