ある日、“会津の血”が騒ぎ出して、蕎麦屋修行に走る。師匠から得たものを神楽坂で大きく育て上げました。その蕎麦屋仕事に、10月、ミシュラン一つ星が届けられる。蕎楽亭のオーラはドラマチックでした。

(1)店のオーラ
蕎麦の道は会津へと続く

 “保科の殿様”、会津の人はそう呼ぶらしいのです。徳川家光の異母弟の保科正之のことです。

 妾腹の子で生まれ、信州の保科家に隠されるように養子に出されました。長じて名君の素養がありとの聞こえが広がりました。後に将軍家光が最も頼りにし、信州高遠藩3万石から会津藩23万石を与え、東北の雄、伊達仙台藩の押さえにと関東の入り口・福島に移封したのです。

2色蕎麦、めおともり、むぎおとめ。蕎麦、饂飩、ひやむぎの多彩なラインアップが特徴。

 その時に、正之は信州の蕎麦、紬反物、陶器を会津に移植しました。徳川後期にはその会津の蕎麦文化が江戸市中に大きな影響を与えました。

 「蕎楽亭(きょうらくてい)」の亭主、長谷川健二さんは、“保科の殿様”と呼ぶ会津の生まれです。

 長谷川さんは、福島の高校を卒業して東京の繊維会社に就職しました。百貨店にも入っている大きな会社で、20代半ばまでは順調そのものでした。

 しかし、運命は思わぬ展開を呼びます。

コラーゲンたっぷりの牛筋を入れたカレー蕎麦&うどん、神楽坂に新蕎麦ファンを作り出す。

 それは日本全土を襲ったあのバブルの崩壊でした。会社もその波に巻き込まれ、長谷川さんはリストラで仲間を失い、何か気持ちに釈然としないものが残ったそうです。

 20歳前半の頃から、元々“今のままでは何か違う”と思っていたくらいですから、この時、“自分ひとりで何かしたい”そんな漠然とした焦りが胸に湧き出したといいます。

 “会津の血”が騒いだのかも知れません。が、それは当人も予測しない道に入っていく前兆でした。

生まれ故郷から酒や食材を仕入れ、江戸蕎麦に新風。甘いとろ肉の会津産の馬刺しが旨い。

 ちょうどその頃は、政権の変わり目で、高齢化社会到来の予測から介護福祉士の国家試験制度が発足したばかりでした。その資格に応募して試験に受かりました。

 しかし、仲のよい上司に、その程度の理由では辞めさせる訳にはいかない、と反対されてしまったのです。

 “もっとはっきりした理由”を探そう――。電車道をまっしぐらに走るように、何かを求めて走り出しました。

 寿司屋はどうだろうか。でもこれは修行に10年も掛かる。当時注目を集めた喜多方ラーメンはどうだろうか。これは何かピンとこない……。沢山のことを模索したそうです。