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田中均の「世界を見る眼」

黒船、日米安保に次ぐ「第三の戦略転換期」が到来
“傲慢化する中国”に日本はどう向き合うべきか?

田中 均 [日本総合研究所国際戦略研究所理事長]
【第8回】 2012年5月16日
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過去の日本の戦略の「二大転換」は
米国、中国との関連性の中で起きた

 先日、在日米国海軍の将校たちに講演する機会があった。その中で、私は遠くない将来、日本は中国の台頭を踏まえて包括的な戦略を考えざるをえないと思う、と述べた。

 日本の地政学的な要因によるものなのか、実は過去の日本の戦略の大転換は米国、中国との関連性の中で起こってきた。

 まず、日本の鎖国を破った1853年のペリー提督に率いられた黒船襲来である。このときペリーは、周到な計画を立てて大西洋を渡り、喜望峰を経て香港経由で琉球に上陸し、小笠原を占領し浦賀に襲来しているのである。

 これは、太平洋を隔てた日本を開国させることそのものが米国の利益にかなうという判断があったことは間違いなかろうが、一方において欧州列強が中国に圧力を加え、進出していく当時の歴史的背景の中で、中国との通商関係を構築するために日本を開港し、蒸気船の補給基地として使いたいという思惑があったことも事実であろう。

 ペリー来航を機として、その後和親条約や修好通商条約が締結されていく。日本はこのペリー来航から20年も経たない1871年に、米国・欧州に岩倉具視に率いられた大使節団を送り、「富国強兵」の基本戦略を構築していく。

 2度目の大きな戦略転換は、太平洋戦争での敗戦がもたらした。そもそも日本が中国大陸への戦争拡大に進んだ結果、米国の戦争判断に繋がったのであろうし、敗戦の結果、吉田茂は「軽武装経済復興」という戦略判断を行なったのである。

 私は15年前にサンフランシスコ総領事をしていたが、総領事公邸から数分のプレシディオ旧陸軍基地を度々訪れた。吉田茂は1951年、オペラハウスでのサンフランシスコ講和条約の署名式に臨んだ後、ほぼ単身でプレシディオに乗り込み、日米安保条約(旧安保)に署名したのである。

 米国に安全保障を依存し、経済再建に全力で当たるという大戦略であった。興味深い点ではあるが、日本の最初の戦略転換は、米国の中国進出を契機とするものであり、第二の戦略転換は、日本の中国進出を契機としたものであった。

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田中 均 [日本総合研究所国際戦略研究所理事長]

1947年生まれ。京都府出身。京都大学法学部卒業。株式会社日本総合研究所国際戦略研究所理事長、公益財団法人日本国際交流センターシニアフェロー、東京大学公共政策大学院客員教授。1969年外務省入省。北米局北米第一課首席事務官、北米局北米第二課長、アジア局北東アジア課長、北米局審議官、経済局長、アジア大洋州局長、外務審議官(政策担当)などを歴任。小泉政権では2002年に首相訪朝を実現させる。外交・安全保障、政治、経済に広く精通し、政策通の論客として知られる。

 


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西側先進国の衰退や新興国の台頭など、従来とは異なるフェーズに入った世界情勢。とりわけ中国が発言力を増すアジアにおいて、日本は新たな外交・安全保障の枠組み作りを迫られている。自民党政権で、長らく北米やアジア・太平洋地域との外交に携わり、「外務省きっての政策通」として知られた田中 均・日本総研国際戦略研究所理事長が、来るべき国際社会のあり方と日本が進むべき道について提言する。

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