「いや、遅くなって申し訳ない」

 もじゃもじゃの髪の毛をかきむしりながら、安曇が個室に入ってきた。由紀は、立ち上がって深々と一礼した。

 安曇は腰をおろすと、コップの水を一気に飲み干した。

「君は、お父さんから引き継いだ会社を、どのようにしたいと考えているのかな?」

「先生にお願いするまでは、会社が破産したって構わないと思っていました。しかし不思議ですね。日を重ねるごとにハンナを失いたくない、という気持ちが強くなってきました。でも、正直言って、何をすればいいのかわからないのです」

 由紀は、自分の気持ちを率直に伝えた。

 それまで、目を閉じてじっと耳を傾けていた安曇が口を開いた。

「会社を失いたくない、と思う気持ちはよくわかった。だが、社長である君は、誰も頼ってはいけない。社長の仕事は会社を潰さないことに尽きる」

 由紀は顔から火が出る思いがした。会社を潰さないことが自分の使命だとは、思ってもいなかったからだ。単に父親から引き継いだ会社を潰したくない、と思ったに過ぎなかった。心のどこかで、安曇が助けてくれるだろう、と願っていた。

 ところが、安曇は、会社の運命は社長が握っている、というのである。

「社長として最初にするべきことは何でしょうか?」

 由紀は、おそるおそる聞いてみた。すると、思ってもいなかった答えが返ってきた。

「まず、会計を学ぶことだ」

(会計ですって……)

 由紀は戸惑いを覚えた。

 会社を経営するのに、なぜ会計が必要なのか見当もつかない――。

 それに会計用語は特殊だし、仕訳や数式を見ただけで拒絶反応が起きてしまう。会計はこの世で最も魅力のない学問に違いない、と由紀はつねづね思っていた。